2021年2月14日(日)
マタイによる福音書14:22-36
イエスの“湖上歩行”の奇跡である。マルコとマタイ、そしてヨハネの3つの福音書に記される出来事である。マルコとヨハネでは、イエスが嵐の中湖上を歩いて来られた不思議さだけが記される。「神の子としての力を現わされた」ということだろうか。
しかしマタイはそこにもう一人の人物を登場させる。ペトロである。マタイはこの奇跡物語を、筆頭弟子・ペトロの、その信仰の成長と失敗の物語として描き出すのである。
マタイ福音書において、ペトロはしばしば“特別扱い”を受けている。一番顕著なのが、ペトロの「メシア信仰表明」の場面(16:13-20)だ。「あなたがたは私のことを何者だと思うか」というイエスの問いに対して、ペトロが「あなたこそメシヤ、神の子です」と答える。他の福音書では、イエスはすぐさま「そのことを誰にも言うな」と命じられる。しかしマタイのイエスは違う。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。私はこの岩(ペトロ)の上に教会を建てよう。私はあなたに天国の鍵を授けよう…」そんなイエスの言葉が記されている。この言葉が根拠となって、代々のカトリック教会教皇は「ペトロの後継者」として天国の鍵を伝授しているという。カトリックの総本山は「サン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂」である。
今日の箇所でもペトロは特別扱いだ。嵐の中、近づくイエスを見て、他の弟子たちが「幽霊だ!」と怖じ惑う中、ペトロはそれがイエスだと分かると、「そちらに行かせて下さい」と願い出た。あり得ない出来事を「あり得ない!」と言って片付けてしまわないで、「自分もやってみよう…」とチャレンジする、そんな姿が描かれる。直情的で、肝心な時にはだらしないキャラクターとして描かれるペトロであるが、信仰を抱いてチャレンジする点においては、他の弟子たちよりも一歩抜きんでていた。
「来なさい」というイエスに声に導かれて、水の上に足を進めたペトロ。すると湖の上を何歩か歩けた。初めて補助輪なしの自転車に乗る子どものような姿だ。信仰とはある種の冒険でもある。イエスへの信仰に集中しチャレンジする時、そこに信仰の成長が与えられる。冒険しない信仰もあるのだろうが、そこには成長も少ないだろう。
しかしそれも一瞬の出来事であった。波と風が強まり、恐怖を抱いた瞬間、ペトロの足は水の中に沈んで行った。ペトロは失敗してしまったのだ。あわててイエスが手を差し伸べ、そして言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか!」
イエスはペトロの失敗を非難されたのだろうか?そうではないと思う。言葉は厳しいが、その表情は怒った顔ではなく、笑っておられたのではないかと思う。自転車で転んだ子どもを、微笑みながら励ます親のように。イエスは「失敗するのはダメだから、冒険するな」とは言われない。失敗してもいい、迷ってもいい。あなたの手でやってみなさい、あなたの足で歩いてみなさい…そう語って、信仰の成長と失敗を導かれるのである。