2021年2月28日(日)
マタイによる福音書12:22-32
「悪霊に打ち勝つ力」とは何だろう?「悪霊に取りつかれた人」とは、現代で言うところの精神疾患を抱えていた人のことであろう。今の医学では脳の機能障害であることが明らかにされているが、古代イスラエルではこの手の病気は悪霊の仕業、もしくはその人(またはその家族)の犯した罪への報い、と捉えられていた。
イエスはその「悪霊憑きの人」を癒される。それは現代医学のような「患部の治療・機能回復」というよりは、それらの病気を理由に社会から排除されていた人が、イエスに受け入れられることによって人間性を取り戻した…そんな出来事であったのだろう。
「悪霊憑きの人」がどんな処遇を受けていたかは、マルコの「ゲラサ人の癒し」に詳しい。「墓場を住みかとし、鎖でつながれてもそれを打ち砕き、自らを石で打ち叩いていた」と記される。現代の私たちは「ひどい仕打ちだ!」と感じる。しかし聖書時代の人にとっては、手の施しようがなかったというのが実際であろう。
しかしそんな人とイエスは出会い、受け入れ、そして癒されるのである。その様子を見て人々は言った。「この人こそダビデの子=メシヤ(救い主)ではないか!」。ところがそれにクレームをつけたのがファリサイ派の人々である。「この男は悪霊の頭・ベルゼブル(蠅の王)の力を使って悪霊を追い出しているのだ」。こいつがメシヤであるはずがない、という中傷である。
これに対してイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめだ」「私は神の霊で悪霊を追い出している」「聖霊に対する冒涜は赦されない」と言われた。これらの言葉を文字通りに読めば、「悪霊に打ち勝つ力」とは聖霊、すなわち神の霊ということになるだろう。
ではファリサイ派の人々が言ったことは、まったく根拠のないでっち上げだったのだろうか?そうではなくて、「悪霊憑きの人」に向き合うイエスの姿は、まさに鬼気迫るものであり、ハタから見れば悪霊の力を借りて悪霊を追い出しているように見えるような、壮絶なものに見えたのではないか。
「蛇の道は蛇」という言葉がある。暴力団組長の家にガサ入れに行く刑事のふるまいや言葉遣いは、どっちがどっちか分からないほど荒々しい。髪を振り乱し狂い叫ぶ「悪霊憑きの人」に対し、この人を遠ざけず向き合おうとされるイエスの姿は、同様にすさまじいものがあった…それを見たファリサイ派の人たちが、「あいつは悪霊の力を使っている」と言ったのだとしたら、あながちハズレではないだろう。
安息日の掟を破ってでも病人を癒されたイエス。そのイエスならば、一人の人が癒されるのであればベルゼブルの力も借りられたのかも知れない…少なくともハタから見てそう思えるような振る舞いをされたということではないだろうか。
そこにはファリサイ派の人々のような「宗教的正しさ」はない。しかし、人のことを大切に思う気持ち、即ち「愛」がある。
「悪霊に打ち勝つ力とは何か?」最初に立てた問いである。この問いに対して「それは聖霊である」というのは模範解答だ。しかしもう一つある。それは「愛の力」である。