2021年3月7日(日)
マタイによる福音書16:21-25
♪「主に従うことは、なんとうれしいこと/心の空晴れて、光は照るよ」(讃美歌507)イエス・キリストに従うことの喜びを歌ったものだ。弾むリズムにその信仰者の喜びが表されている。
しかし私たちは今、レントの季節を過ごしている。その経験は私たちに次のようなことを告げる。「主に従うことは、うれしいこと・喜ばしいこと・歌いたくなるくらい幸いなこと…ばっかりじゃないそ!」と。
「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」。今日の聖書箇所のイエスの言葉である。人々から「この方こそ救い主!」と信じられていたイエスは、ご自身に従う者に十字架を背負って生きることを命じられたのである。
それは「暗い・厳しい・楽しくないこと…」その通りである。しかしそれは仕方ないことである。なぜならイエスご自身が十字架の上で処刑される形で命の終わりの時を迎えられたから、そしてそのことを通して大切な生き方を示されたからである。
「友のために自分の命を捨てること、それよりも大きな愛はない」。ヨハネ福音書に記されたイエスの教えだ。イエスはこの言葉通り、いと小さき隣人の救いのために自分の命を捨てられた。それが十字架の出来事である。
イエスが愛に生き貫かれたことは誰もが認めることである。しかしそのイエスがなぜ十字架の苦しみを負わねばならなかったのか。納得できない弟子もいた。イエスがご自分の受難予告をされた時、ペトロはイエスを諫めたと記されている。「そんなはずがありません。そんなこと、言うもんじゃありません」と。ペトロは愛に生き貫いたイエスの勝利を望んでいたのだろう。あわよくば自分がそのおこぼれにあずかることも…。
しかしそのペトロにイエスは「サタンよ引き下がれ!」と厳しく言われる。自分の勝利を求める心、自分の栄光を望む心、それが「神のことを思わず、人のことを思う」サタンの働きだということだ。
本当に人を愛そう(大切にしよう)とするとき、そこではうれしい・楽しいことだけでなく、厳しい・辛い思いをしなければならないことがある。いじめられているクラスメイトを助けようと、「やめろよ!」と言うことは大切なことだ。しかしそれは簡単にできることではない。なぜならそのいじめの波が自分に向かってしまうかも知れないからだ。人を大切に生きることは素晴しいことだ。しかしそれを実行するとなると、それは時に茨の道となる。
東日本大震災後の原発事故の直後、このままいくと最悪の事態を迎えるかも知れない原子炉に海水を注入して冷やすために、消防庁のハイパーレスキュー隊の人たちが現地に赴いた。嘱託医として同行した山口芳裕医師は、万が一の場合は死ぬかも知れない…そう思って「家族を頼む」と息子さんに遺言のようなメールを打たれた。
息子さんから返信メールが届いた。「死の覚悟を持って福島の地に赴かんとする父を誇りに思います。幾多の困難を乗り越えてきた父上、必ずや責務を全うされると信じます。どうかご存分のお働きを」。こうした覚悟を抱いて出かけた人たちの働きによって、東日本が壊滅する事態は回避された。
山口医師やハイパーレスキュー隊の人たちが、イエスの教えを知っていたかどうかは分からない。しかしその歩まれた生き様は、まさにイエスの教えられた「隣人のために十字架を背負う生き方」そのものだ。
誰もが心の中に「自分がかわいい」という自己中心的な思いを抱いて生きている。しかしその思いを振り切って、隣人のために十字架を背負うことのできるき方… その大切さをイエスは教え、そして身をもってそれを示された。私たちがはたしてそのイエスの教え通りに生きられるかどうかは分からない。しかし「ここには大切なメッセージがある」「ここには本当の豊かな人の生きる道がある」ということだけは心に刻みたい。そのようなことを思いながら生きる生き方は、そんなことはひとつも思わない生き方とは必ずどこかで違ってくる。そしてそのことが、私たちを神の前での本当の豊か歩みへと導いてくれるのだ。