2021年3月28日(日)
マタイによる福音書27:45-56
友人のお医者さんが、自らの臨床体験を元に「人は生きてきたように死んでゆく」と言っていた言葉が印象に残っている。「死にざま」は「生きざま」であり、どのように生きてきたかは、どのように死ぬかということとつながっている、ということだ。
棕櫚の主日の礼拝、聖書箇所はイエスの十字架の最期の場面である。4つの福音書がそれぞれの視点で、その最期の姿を記している。
一番堂々と、荘厳な形で十字架につかれたイエスの姿を記すのはヨハネだ。すべてを知り尽くし、泣き言ひとつ言わず、自分の母と弟子たちとの間を取り持ち、「私は渇く」とだけ望みごとを言い、「成し遂げられた」(新共同訳。旧口語訳では「すべては終わった」と訳出)と息を引き取る姿は、堂々としている。
一方私たちのよく知る感動的なやりとりを記すのはルカだ。十字架の上で敵を赦し、イエスに従順を示す受刑人に「あなたは今日、私と楽園にいる」と語り、最後は「私の霊を御手に委ねます」と語る。ヨハネやルカが記すイエスの最期の姿は、ある意味「立派な最期」と言えるだろう。
一方、絶望的な断末魔と共に最期を迎えるのがマルコとマタイだ。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?)」そう叫ぶ姿が記されている。イエスは何度も十字架の苦難を予言している。こうなることは予想できたはずだ。それなのに、最後に泣き言を言っている…そんな風に受けとめる人は、不甲斐なさを感じるかも知れない。
しかし、カッコいいヨハネやルカの描くイエスの姿に比べて、不本意な思いが表されるマルコ・マタイの姿の方が真実に近いような気がする。先日、3.11.東日本大震災を覚える礼拝で、ひとりの牧師が「震災の際に神への疑い・怒りを感じた」ということを祈られた。そんな思いを持っているようには思えない、まじめで素直な人であるが、その赤裸々な言葉に「ほんとうの思い」を感じた。
最後に神に抗議するイエスの姿は「神の子」にふさわしくないだろうか?むしろそこには飾りごとではない「ほんとうの思い」が表されているのではないか。
その姿を見て、「この人は神の子であった」と語った人がいた。ローマの百人隊長である。幼い子どもは信頼する親だからこそ全面的にワガママが言える。絶望の叫びを挙げるイエスの中に、この人は次のような思いを感じたのではないか。「あぁこの人は、これほどまでに神を近くに感じておられる。絶望の思いをガマンしないで、神にぶつけておられる」と。
絶望の中でイエスは命を奪われた。それは決して「立派なこと」ではなかった。「美しい出来事」でもなかった。それは悲惨で、理不尽な出来事だった。その理不尽さをイエスはやせ我慢して「みここのままに…」などとは言わず、「なぜなんですか!」と叫んで受けとめた。それがイエスの「神の子」としての、ひとつの真実な姿であった。
私たちにも、悲惨に思うこと、理不尽に感じることがしばしば起こる。そういう状況を、グチひとつこぼさず淡々と受け入れるのは「立派なこと」である。しかし無理して立派に振る舞わなくてもいい、美しく飾らなくてもいい…時には「理不尽だー!」と叫んでもよい、理不尽な思いをそのまま受けとめて下さる方への信頼を、率直に表してもよい…そんなことをイエスの最期の姿は私たちに示してくれる。
そして、その絶望の中から、無念の思いの中から、神は新しいことを始められるのである。