2021年4月4日(日)イースター
マタイによる福音書28:1-10
イエスが断末魔の叫びと共に最期の息を引き取った時、それを見ていたのは女性たちだけであった。男の弟子たちは肝心の時イエスを守ることができず、散り散りに逃げ去ってしまったのだ。ひとりアリマタヤのヨセフという金持ちの議員だけが残り、イエスの遺体の引き取りを申し出た。そして遺体を引き取ると急いで墓に納めた。金曜日の夕暮れ、安息日が始まりかけていたからである。
女性たちはイエスと十分な別れができなかった。教会の葬儀などでも時間が押して火葬前のお別れが十分できないことがある。コロナ状況の中、最後のお別れすらできないケースもあるという。張り裂けるような悲しみを十分悲しむことができずに、消化不良のまま大事な人を見送らなければならない…イエスの十字架を見届けた女性たちも、同じような心境だったのではないだろうか。
イエスの遺体に香油を塗ることができなかった…十分な葬りの装いをしてあげられなかった…そんな沈む思いで金曜日・土曜日を過ごした彼女たち。そして日曜日の朝、重い足取りでイエスを納めた墓に向かった。
するとそこで彼女たちが見たのは、予測していたような絶望的な結末ではなかった。墓の石はわきへのけられており、白い衣の天使がその上に座って言ったのだ。「あの方はここにはおられない。よみがえられたのだ。ガリラヤでお会いできると、弟子たちに告げなさい。」
女性たちは何を感じただろうか?弾むような喜びだろうか?マルコは恐怖に震え何も言わずに立ち去った姿を描いている。死んだはずの人、遺体を見に行った人が「よみがえった」と言われて、すぐさま「あーよかった!」とはならないと思う。女性たちの恐れる姿を描くマルコの記述にリアリティを感じる。
しかしマタイは、恐れながらも次第にそれが喜びに変わっていく姿として描いている。「イエスのいのちは空しく終わったのではなかったのだ!」その思いが、恐怖を覆い尽くしやがて喜びへと変わってゆき、それを弟子たちに告げに行く姿を記すのである。
すると彼女たちの向かう先にイエスが現れて、声をかけられた。「おはよう。」以前の口語訳聖書では「平安あれ」、文語訳の聖書では「安かれ」と訳されていた。新共同訳聖書になって一番変わったと思ったのがこの箇所だ。「平安あれ」「安かれ」といった言葉と共に現れたイエスは、荘厳な神妙な面持ちのイメージで受けとめていた。しかし「おはよう!」という挨拶からは、柔らかなほほ笑みと共に現れたイエスを想像する。
ユダヤの人々のあいさつは「シャローム(平和・平安)」である。「あなたに主の平和がありますように」という思いを込めてあいさつをかわす。イエスはそんな平和のあいさつと共によみがえられたのだ。
イエスと出会える場所として示されたのは、ガリラヤだ。それはイエスや弟子たちにとって、日常の営みが繰り広げられていたところである。特別な場所ではなく、日常のただ中で、平和のあいさつと共に、私たちはよみがえりのイエスと共に歩むのだ。