2021年4月11日(日)
イザヤ書65:17-25
池江璃花子選手の復活劇には、大きな感動を与えられた。しかしこの感動の物語を、コロナ状況の心配がある中で東京五輪を強行する口実にはしてはならないと思う。本当に安全が見込めて、十分な体制が取れるのであれば、開催すればいい。しかし大阪・東京では感染爆発・医療崩壊の兆しがあり、フランスは全土ロックダウン、ブラジルでは一日の死者が3000人を超える現状は、とても世界的イベントを開催できる状況とは言えないだろう。池江選手には商業主義のド派手な五輪ではなく、純粋な水泳の競技大会(世界選手権)において、存分の力を発揮してもらいたい。
今日の聖書はイザヤ書65章、イスラエルの民がバビロン捕囚の苦しみから解放された時期に活動した、第3イザヤによる預言の言葉である。ユダヤ人は捕囚の苦役に耐え、ついに自由の時、解放の時を迎えた。しかしそれは必ずしも、すぐさま大きな喜びへとつながるものではなかった。荒廃した祖国、干ばつと穀物の不作、飢饉による物価の高騰…そんな厳しい現実が待ち受けていた。荒れ果てた祖国に帰り途方に暮れる人々…。そんな帰還者たちに対し、それでも希望を失うことなく、神が開いて下さる未来に目を向けて生きるようイザヤは語りかけるのである。
「見よ、私(ヤハウェ)は新しい天と地を創造する。そこで代々とこしえに喜び踊れ」とイザヤは語る。「祖国の再建など無理だ…」とうなだれるイスラエルの民に、あきらめることなく希望を抱いて進むことを伝える。「新しい天と地」とは何だろうか?かつてダビデ・ソロモンの時代のように、他国に引けを取らず武力と財力と知力で圧倒する…そんなイスラエルにとっての「過去の栄光」を取り戻すような世界に「復旧すること」だろうか?
そうではない。イザヤは続けてこう語る。「始めからこのことを思い起こすものはいない、それは誰の心にも上ることはない」と。人間が自分の都合よく思い浮かべるような社会に復旧することではなく、まったく新しい世界に「刷新されること」なのである。
象徴的な言葉がある。「狼と小羊が共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べる」。弱肉強食ではない世界、弱い者がそのままで尊ばれるような究極の平和…それが「新しい天と地」である。そしてそんな世界をもたらすために来られたのが、イエス・キリストなのである。
絶望の中にある人間は、なかなか未来を希望をもって眺められない。そんな人たちには強いカンフル剤、美しい花火が必要だ…そういうことがよく言われる。しかしそれが商業主義の五輪のような、手垢のついたド派手なイベントだとするならば、それは麻薬・アヘンのようなものであり、弱い者・貧しい者が食い物にされることにつながりかねない。
「新しい天と地」とは「復旧」ではなく「刷新」である。その新しい世界を迎える夜明けはいつか必ずやって来る。でも今はその時ではない、と思う。今はそれを信じて、耐え忍ぶ時だと思うのだ。そうしていつの日か、神が創造される新しい天と地が本当に来た時には、心から感謝して、その地で喜び踊りたい。