『 しるしと信じる心 』

2021年4月18日(日)
列王記上17:17-22 マタイ12:38-42(楠元伝道師)

律法学者・ファリサイ派の人々は、イエスに「先生、しるしを見せて下さい」と願い出た。「しるし」とは、神の子として行う奇跡のことである。イエスは少し前の箇所で、安息日に手の萎えた人の癒しという「しるし」を見せておられた。しかしそれを見たファリサイ派の人々は「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とある。「こいつはまずい。どうにかしないと自分たちの立場がなくなる」と、イエスを抹殺することを計画し始めたのである。

それなのに、ここではイエスにしるしを求めている。イエスは「よこしまで、神に背いた時代の人はしるしを欲しがる」と言われる。それはヤハウェの神を捨てバアル神を礼拝した旧約の人々の姿である。「ご利益を与えてくれる神」「自分の欲望を満たしてくれる神」を求める心が「しるしを見せてみよ」という要求となる。それは、メシヤ(救い主)の存在も、それを認定することも、自分たちのものさしで測ろうとする態度でもある。

対称的な人々の姿が語られる。「ニネベの人々・南の女王」である。異邦人でありながら預言者ヨナの言葉を受けて、しるしも見ないのに悔い改めたニネベの人々。ソロモンから知恵の言葉を聞いただけで、何のしるしもなく神を求めたシェバの女王。両者の姿は、自分に都合のよいしるしではなく、ただ神を敬う心・信じる心を持って神の前に出る人の姿である。

一方、列王記に記されたやもめは、「困難の中でも壺の中の小麦粉と油が尽きなかったしるし」や、「死んでしまった息子がエリヤの祈りでよみがえるという奇跡」を見て、エリヤと神を信じるに至った。彼女は「しるしを見て信じた人」だ。同じように「しるし」を求める心は誰もが持っている。それは「持ってはいけないこと・求めてはいけないこと」なのだろうか?いや、私たちに「しるし」はすでに与えられているのだ。

イエスは「ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」と言われる。「ヨナのしるし」― それはヨナが預言者の召命を逃れる中で海に放り込まれ、大きな魚の腹の中で三日三晩過ごしたことを表している。そしてそれは「人の子が三日三晩大地の中」、つまり墓の中にいたことと重ね合わされる。「ヨナのしるし」、それはイエスの十字架の死と復活を象徴している。

「しるし」は私たちに既に与えられている。それはイエス・キリストの十字架と復活である。それは私たちにとって大いなる希望であり、信仰の基となる出来事なのだ。とはいえ、私たちはつい「しるし」を求めてしまう。それが「絶対にいけないこと」だとは思わない。しかし、神さまに対して、自分の都合のよい「しるし」だけを求めることはしたくない。「主イエスこそわが望み」(讃美歌531)そのように受けとめ、ただ神により頼む…そんな「信じる心」を大切に求め続けたい。

(文責=川上盾)