2021年4月25日(日)
ヨハネによる福音書11:25-26
今は復活節、イエス・キリストの復活の命と共に歩む日々を過ごしている。復活信仰はキリスト教の真髄。では、その「復活の命」とは何だろう?古代社会と違い、科学や医学の発達した現代社会で、復活信仰を「そのまま」の形で信じることは難しい。
「復活の命」とは何か?「死なないこと」だろうか?そうではない。イエスは十字架上で確かに死なれた。絶望の死を遂げられたのだ。しかしその絶望の中からよみがえられた、ということなのだ。「復活の命」とは「死なないこと」ではない。
では「復活の命」とは何か?生き返ることだろうか?ごくまれに、心肺停止で亡くなったと思われた人が、蘇生することがあるという。イエスの「復活の命」とは、そのようにして「生き返った」、もとのイエスの姿に戻られたということだろうか?「旧に復する」=復旧されたということだろうか?
福音書には、よみがえったイエスに出会った弟子たちが、最初はそれがイエスだとは気付かなかった様子が記される。エマオの物語(ルカ)しかり、マグダラのマリアへの顕現(ヨハネ)しかり…。たった3日で大切な人の顔を忘れるわけがない。このことは、イエスが「旧に復する」つまりまったく同じ姿で「生き返られた」のではないということを表しているのではないだろうか。
神の力でイエスはよみがえった、ということ ― それは「元の姿に戻った」ということではなく、「新しい姿(命)に生まれ変わった」ということではないだろうか。それは「復旧」ではなく、「刷新」である。
コロナ状況の中、私たちは「早く元通りの生活に戻りたい」という願いを抱く。しかしこの未曾有の苦難の経験をくぐり抜けたところに、私たちはどんな世界を望むのか。かつてと全く同じような世界、すなわちモノとカネが高速で行き交う世界、強い者が弱い者を食い物にする世界、そんな世界を望むのだろうか?
そうではなく、この苦難と試練の経験に学んだ中で、新しくされた世界をこそ願うことが大切なのではないか。それは「復旧」ではなく「刷新」である。「復活の命」とは「新しく生まれる」ことである。
もうひとつ、「復活の命」が示してくれることがある。「もうだめだ、おしまいだ!」私たちがそう思ったとしても、それがすべての終わりではない、ということだ。「死でも終わらない物語がある。」「死によっても断ち切られない“いのちのつながり”がある。」そのことを信じるのが復活信仰である。
イエス・キリストの生涯、教えとふるまい、十字架の死、そして絶望の中からの復活…それは私たちに「ほんとうに大切なもの」を示してくれる。それは私たちにとって、道であり、真理であり、命なのである。