『 喜びの源 』 楠元 桃 伝道師

2021年5月16日(日)
ルカによる福音書24:44-53

コロナ状況により学校の授業がオンラインになっていた時期、学校の礼拝もオンライン配信で行なっていた。いつもは全員参加で「仕方なく」参加していた生徒もいたと思うが、見るためにわざわざボタンを押す必要があるオンライン礼拝に、1000件以上のアクセス数があった。自分の意志で礼拝に臨んでくれた結果である。多くの生徒に礼拝が必要とされているのをうれしく思ったのと同時に、神さまがひとりひとりをとらえていて下さることを感謝した。

先週木曜日はイエス・キリストの昇天日。十字架の死よりよみがえり、弟子たちの前に再び現れたイエスは、しばらく共にいて何をなすべきかを示した後、天に昇っていかれた。その時の弟子たちの心境は、どんなものであっただろう?十字架を前に逃げ出してしまった弟子たち。そんな情けない彼らと、復活のイエスは共にいてくれた。そして今、天に昇っていく姿を見送らせてくれたのである。

「弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り…」と記されている。思い出す光景がある。大賀牧師時代のペンテコステ礼拝で、「目に見える昇天」ということでビニール袋の熱気球を礼拝中に飛ばしたことがあった。それを見上げた会衆の顔は満面に笑みにあふれていた。昇天日の弟子たちの顔もそんな表情だったのだろうと想像する。

なぜ満面の笑みで見送ったのか?それは肝心かなめの時にイエスを見捨てて逃げてしまった疚しさが、昇天の出来事によって赦されたという思いに包まれたからではないだろうか。取り返しのつかない過ちを犯し、お詫びも赦しを請うこともできなかった弟子たちと、それでもイエスは共にいて、昇天を見送らせてくれたのである。

親しい人の死や別れは誰もが体験する。残された者にはとてもつらい経験である。しかし心をこめて葬儀を営むことによって、心の整理が与えられ、死の受容へと導かれる。逆に、何かの事情で葬儀に参列できなかった場合、大きな心残りを覚えることがある。その意味で、葬儀は亡くなった人のためだけではなく、残された者のための「お見送り」の営みでもある。

弟子たちは十字架の時、イエスの死を見届けることも、なきがらを葬ることもできず、イエスときちんと別れることができなかった。しかしイエスは復活し、再び弟子の前に現れて下さった。そして昇天=「死とはちがう別れ」に立ち会わせること・自分を見送らせることによって、失敗・後悔から立ち直り新しく生き直すチャンスを与えられたのである。イエスは弟子たちに勇気を与えてくれた。その体験が、弟子たちの喜びの源だったのではないか。

弟子たちは大喜びでエルサレムに帰った。そこはイエスを十字架につけた人たちのいる街、いわば敵地である。しかしその街で、「約束されたもの」が与えられることを待ちながら準備を続けた弟子たち。彼らに聖霊の力が注がれるペンテコステまであと一週間である。

(文責=川上盾)