2021年6月6日(日)
エゼキエル18:25-32
現在会期中の国会で、少年法の改正やわいせつ教員対策新法の制定が可決された。いずれも厳罰化に向かうものである。「罪を犯した者は厳重に処分すべきだ」という意見もあろうが、私はその意見には簡単に同意できない。なぜならキリスト教の教えの大切な要素の一つが「罪の赦し」であり、やり直しのチャンスを与えられることだと思うからだ。私自身、赦されて生きてきた者だからだ。
聖書に登場する重要な人物で、やり直しのチャンスを与えられた人は多い。モーセは義憤に駆られてエジプト人を殺した殺人犯である。ダビデは部下ウリヤの妻・バトシェバを奪うために、ウリヤをわざと戦死させる策略を企てた。ペトロはイエスを見捨てて逃げ去り、パウロはイエスを信じる人々を弾圧し殺害した。いずれも自分の罪に気付く機会が与えられ、やりなおしのチャンスが与えられる中で、やがて神の働きの担っていった人たちである。
これらの出来事は二つのことを私たちに示している。①人は皆、神の前に罪深い存在である、ということ。②しかし神は気付きを与え、罪を赦し、やり直しのチャンスを与えて下さるということだ。
預言者エゼキエルは、ユダヤ人にとっての最大の苦難『バビロン捕囚』時に活動した人だ。前半では偶像崇拝の過ちに走るユダの国に裁きが下ることを預言し、後半では失意の底に沈む人々に向けて民族復興の幻を語る。エセキエルはユダの国を憂えていた。しかし同時に神の赦しを得て、新しく歩み始めることをも望み見ていた。今日の箇所にはその両方の思いが滲み出ている。
捕囚の苦しみの中で「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」ということわざが広まっていた。「先祖が悪いことをしたから、このような苦しみがあるのだ」そう受けとめ、自暴自棄になる人たちの言い分である。しかしエゼキエルはそれを否定する。
「神は父祖の罪の責任を、子どもらに取らせるような方ではない。罪に対してはそれを厳しく裁く方であるが、悔い改めて新たに生きようとする者には、赦しを与えて下さる。神の究極の願いは、ユダ(イスラエル)が裁かれること(死ぬこと)ではない。ユダが悔い改めて、すべての背きから離れ、新しく生きることである…」それがエゼキエルのメッセージだ。
「お前たちは、立ち返って生きよ(「翻って生きよ」=旧口語訳)とエゼキエルは語る。そう、これはやり直しのチャンスを与える、神のみこころを表す言葉なのである。そしてその「赦しの神」の姿を、よりはっきりと私たちに示して下さったのがイエス・キリストである。
放蕩息子のたとえ話のように、どんなに神から離れても、悔い改めて家に帰る者を両手を広げて迎えて下さる神。ザアカイの物語のように、人々から疎まれ卑屈になっていたザアカイの回心を「今日、救いがこの家に来た」と喜んで下さる神。そのような神の赦しを信頼するからこそ、人はやり直しのチャンスを生かし、立ち返って生きることができるのだ。