2021年6月20日(日)
申命記26:1-11、Ⅱコリント8:1-7
旧約・新約共に献げものに関する箇所である。教団の聖書日課では4年前も同じ箇所が挙げられていた。オリンピックではないが「4年に一度くらいは献げもの(献金)に関する話をしなさい」ということだろうか。
旧約は申命記26章、出エジプトの出来事によって奴隷から解放され、自由を得たイスラエルの民に対し、移り住んだカナンの地での初収獲を、感謝のしるしとして神に献げなさいと命じられる。命を守られ、苦しみから解き放って下さった神に対する感謝の気持ちの表れ、それが聖書の示す献げものの意義である。
時には罪の赦しを願うために、大切な家畜をいけにえとして献げた。家族同様の羊や牛をいけにえとすることは、正直言って「痛い」ことだったことだろう。その「痛さ」に精一杯の思いが表れる。
私たちがお世話になった人に感謝の贈り物をする時、「このくらい出しておけばいいだろう」「こんなに出すのはもったいない」とは思わないのではないだろうか。神の恵み・イエスの恵みによって豊かな生き方を導かれている…そのことへの精一杯の感謝の気持ちを忘れぬようにしたい。
前橋教会の「教会員のつとめ」には、「(献金は)感謝の気持ちを十分表すものでありつつ、継続可能な金額を献げましょう。」と記している。無理して続かなければ意味がない。無理せず、しかし「少しは頑張る」、その塩梅が大切だと思う。
新約は、マケドニアの教会(フィリピ、テサロニケ等)の人々による、自発的な献金のことを伝えるパウロの言葉である。パウロの時代、初代教会には一つの問題があった。エルサレム教会の経済的な困窮である。イエス・キリストの福音を最初に伝え始めたエルサレムの教会がピンチである…ならばみんなで献金をして支えよう!パウロはそう願って献金を呼びかけた。
それに応えたのがマケドニアの教会であった。裕福なコリントの教会に比べて、マケドニアの教会は貧しかったにも関わらず、パウロの呼びかけに応えて精一杯の献金を献げた。自分たちが貧しくて苦しいのに、どうしてそんなに献げられたのか、と思う。しかし貧しさの苦しみを知っているからこそ、同じ苦しみの中にある仲間のことを思う気持ちが生まれたのだろう。
「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで献げた」とパウロは喜び記す。献げられた金額の多さを喜ぶのではない。自発的に、人任せにせずに、自分のできる精一杯のことをした…そのことをパウロは喜ぶのである。そして裕福なコリントの人々に問いかける。「あなたは精一杯の献げものをしてますか?」と。
神さまは献げものの中身の多寡を見るお方ではない。神殿で大勢の金持ちが有り余る中から献げたものよりも、最小単位のレプトン硬貨2枚を献げた未亡人(それは彼女の全財産)、その精一杯献げる姿・感謝の思いを喜び祝福される方なのである。