2021年6月27日(日)
使徒言行録4:32-37
初代教会の様子を伝える箇所である。人々は自分の持ち物を持ち寄って教会に献げ、それを必要に応じて分け合っていたという。私有財産を持たず、教会に献げ、平等に分かち合う。「原始共産制」というあり方が実現していた。
人間は本質的に利己的な生き物である。それは自分が捕らえた獲物を手放そうとしない野生の動物の本能にまで遡る。しかし初代教会の人々は、その本能に逆らって財産を共有し分かち合う行動を生み出していた。何がそれを生み出させたのか?それは彼らの信じるイエス・キリストが分かち合う豊かさを示された人だったからだ。
「信じた人々の群れは、心も思いも一つにしていた」と記される。カルヴァンは「信仰が支配するところでは、皆の者が同じことを願うほど人々の心を信仰が一致させる」と言った。そのような心の一致を求めて歩むこと、それはとても素晴らしいことのように思える。しかし私はこのカルヴァンの言葉に、何とも言えぬ「危険な香り」を感じてしまう。
初代教会が実現した「原始共産制」、その理想の社会の実現を、国家レベルで目指した歴史を私たちは知っている。そしてその多くが挫折したことも。共産主義革命による社会主義国の樹立と、その盛衰である。
「貧しい労働者の立場に立って、資本家による搾取を無くし、平等に分かち合う社会を作ろう!」その理念が間違いだとは思わない。しかしその理想を実現するために、国民を徹底して管理し、監視し、支配することが行われた。「ぬけがけ」を許さない体制を作る必要があったからだ。結果的に人々の暮らしから自由が奪われた。
ところがそのように国民を管理する指導者たちの中に、権力を用いて私腹を肥やす人がいた。何のことはない、「ぬけがけ」を取り締まる人たちが「ぬけがけ」をしていたということだ。そんな現状への反発が生まれ、結果的に多くの社会主義国は崩壊していった。
社会主義国は「みんなが心も思いも一つになること」が強要される社会であった。同じ思いでないと見なされた人は「国家への反逆者」として裁かれることとなる。私はそんな息苦しい社会に生きたくはない。カルヴァンの発言に「危険な香り」を感じるのは、それが理由である。
信仰によってみんなの思いが一つになる…そのこと自体を否定するのではない。むしろそのようなことが感じられるのは「うれしいこと」だと思う。しかしそれは結果としてそうなるからうれしいのであって、始めから「同じでなければならない」と決めつけられると、とたんに息苦しいものになる。「あまりにも方向性が違う」と感じた時は、互いに問いかけ合うことは必要だろう。しかし大きな意味での方向性が同じならば、それぞれの判断や意見の違いは尊重し合える…そんなしなやかなありようを、丁寧に求めたいと思う。
初代教会の原始共産制、それは信者たちの自発的な行為によって成り立っていた。バルナバは全財産を献げた、と記される。それはすごいことだが、これを「だから私たちも財産全部を献げなければならない」と強制的に受けとめることには賛同できない。ザアカイのように「半分」でもいいではないか。
「心も思いも一つにする」とはどういうことか?みんなが同じように考え、同じ行動をし、同じ言葉を語ることだろうか?必ずしもそうでなくてもいいと思う。「多様性の一致、バラバラのいっしょ。」それがイエスの目指された「共に生きる歩み」ではないだろうか。