2021年7月11日(日) 創立記念礼拝
エレミヤ7:1-7、使徒19:13-20
前橋教会の創立に関わった信徒たちは、同時に共愛学園、上毛孤児院、清心幼稚園、前橋盲学校などの社会的な働きを生み出した人たちであった。“心の中”だけの信仰ではなく、世界の出来事と関わる信仰…「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)「私に向かって主よ、主よと言う者ではなく、神のみこころを行なう者が天の国に入る」(マタイ7:21)、そんな聖句に導かれた“ほんものの信仰”を目指した人たちであったと言えよう。
エレミヤはバビロン捕囚直前のエルサレム神殿において、堕落した姿で礼拝をささげる人たちを痛烈に批判した。「主の神殿、主の神殿、主の神殿!」と唱える人々を、口先だけのにせものの信仰と断じたのである。
ではエレミヤにとっての“ほんもの”の信仰とは何か?「寄留の外国人(旅人)、孤児(みなしご)、寡婦(やもめ)を虐げない」それが神のみこころだと言うのだ。「旅人・みなしご・やもめ」、それは社会の中の弱い立場の人々を象徴する。どんなに美しい言葉で祈ることができても、助けを求める「いと小さき人」を見捨てる人は、“ほんもの”ではないということだ。
使徒言行録では、イエスの名によって悪霊払いをしていた「にせ祈祷師」たちの出来事が記される。彼らは祭司の息子であり、イエスを信じていたわけではない。ではなぜイエスや弟子たちと同じように悪霊払いをしたのか?その真相はわからない。
彼らは逆に悪霊たちによって「お前たちは何者だ!」と叱責され、傷つけられて追い払われた。するとそれを見た人たちが恐れを抱き、続々と入信した…と記されている。“にせもの”の信仰が駆逐され、“ほんもの”が広がっていった…という展開。それは「よきこと」と言えるのかも知れない。にも関わらず、何とも言えぬ後味の悪さを覚える。福音書に、これによく似た、しかし結論のまったく違うエピソードが記されているからだ。
マルコ9:28-41。やはりイエスの名を使って悪霊を追い出している人たちに対し、弟子たちが「我々に従おうとしないのでやめさせますか?」とイエスに尋ねた。ライセンスの有無にこだわる心情、世の秩序やルールを重んじる価値観とも重なる。
しかしイエスは言われた。「やめさせてはならない。」なぜか?それはその“にせ悪霊払い”たちの働きによって、実際に苦しんでいた人々が癒されていたからである。「ライセンスなんかなくても、そこで人が救われているなら、それでいいではないか」とイエスは言われるのである。
イエスは世の秩序に従い「正しく」振る舞うことよりも、多少秩序を逸脱しても、目の前の人を助けることを優先された。安息日に人を癒し、掟や習慣を打ち破って徴税人・罪人と食事をされた。イエスにとって、「主の神殿!」と何度も繰り返すような信仰よりも、いと小さき一人を大切にする(隣人を愛する)信仰こそ、“ほんものの信仰”だったのである。