2021年7月18日(日)
創世記21:9-21, ローマ9:19-28
今日の聖書の直前、「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」とある。神がその主権の内に、ある者を憐れみ、ある者を頑なにされるのなら、神ご自身がかたくなにされた人間を、かたくなだからといって責めるのはおかしいという理屈が今日の聖書箇所の冒頭には記されている。確かに人間の目には神は公平ではないように見えてしまう。人は時として神に不満を言いたくなる時もある。
しかしパウロは言う。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か?」正しさの判断基準を人間の側に置いている時、神の主権は理解できない。人間は自分が中心であり、自分に主権があると思いたい存在である。私たちは折に触れて神に口答えをする者である。
焼き物として焼かれた器である人間は割られて捨てられる存在だった。しかしそんな神の怒りを受けるべき存在の者が、むしろ憐みを受けて救われているのだとパウロは語る。出来が良かろうが悪かろうが、キリストのゆえに、人は神から捨てられることはない、それは神ご自身の憐みのためなのだと聖書は語る。
パウロは神の憐みを説明するためホセアやイザヤの言葉を引用している。ホセア書には不倫を働く妻を赦し、自分のもとに帰るのをひたすら待ち続けた預言者ホセアの悲しい経験が書かれている。ホセアの時代、神に逆らっていたイスラエルは不倫して夫を裏切り続ける女のようであった。背きは、背いた側ではなく、背かれた側がそれを忘れることによってのみ、癒される。人間関係においても、相手の背きを忘れ去ることができて初めて相手を許すことになるだろう。
イザヤの言葉には「残りの者」という言葉が出てくる。つまり本来は救われるはずだったイスラエルが神に反したとしてもなお、「残りの者」を神は救われるのだ。ここでパウロが残りの者として特に語っているのは、ユダヤ人キリスト者であり、異邦人である。神から見捨てられたはずのイスラエルの民の中でもなおキリストを信じて救われる人々がおり、最初は選ばれなかった異邦人もまたキリストを信じて救われていることをパウロはイザヤを引用して語っているのである。
旧約聖書のハガルとイシュマエルの物語もまた、神が異邦人を顧みられたことを表す箇所である。アブラハムとの間にイシュマエルを授かったハガルは、自分の子を授かったサラによって疎まれ、追い出されてしまう。エジプト人であったハガルはイスラエルの民から見れば異邦人である。砂漠の中で苦しむ親子を神は救い出され、イシュマエルからも大いなる国民が生まれることを約束される。
私たちも聖書の世界から見れば異邦人である。新約の時代、民族宗教から世界宗教へと変わったキリスト教。キリストにより本来は怒りの器として滅びる者だったかもしれない私たちを神は憐れみの器としてくださった。神の憐みがあふれでて、選ばれていなかった者にまで憐みがあふれ出て注がれたのだ。その「憐れみの器」「残りの者」である私たちの共同体が教会である。教会は神の憐みの器として立っていて、その教会につながる私たちもまた、神の深い憐れみと愛によって貴い器として用いられていくだろう。神に豊かに用いられる器として、これからの日々も歩んでいきたい。