2021年7月25日(日)
ホセア6:1-6, Ⅱコリント5:14-6:2
コロナウイルス状況以来、「緊急時モード」が続いている。しかしいつになるかはまだ見通せないが、終息の日も必ずやって来る、さてその時に、私たちの生活は、前のままの「元通り」となるのだろうか?「以前と同じ状態」を取り戻すこと、それがこの苦難を克服したということになるのだろうか?人間がひとつの苦難(危機)の時代を乗り越えて、新たな歩みへと向かう時、そこで進むべきはどんな道なのだろうか?
ホセアはアッシリアによる北王国の滅亡を、ヤハウェを離れバアルを拝んだ罪に対する報いだと語る。バアル崇拝は偶像崇拝、自分の欲望を都合よくかなえてくれる神を求める心情だ。ホセアはその心変わりを「淫行の女」「不倫の妻」と厳しい言葉で語る。しかしその妻を許し、再び愛し受け入れるという形で、神の赦しを語るのである。
ホセアが語るのは、罪を厳しく罰し、しかし同時に赦しを与える神の姿だ。はたして神は厳しい方なのか、それとも憐れみ深い方なのか。その両方である。神の厳しさを知らぬ人間は傲慢になり思い上がってしまう。しかし厳しい裁きだけでは心が辛くなる。厳しさの一方で赦しが与えられている…だから私たちはその神を信頼し、罪を離れる道へと導かれていく。
バアルに仕え、おのれの欲望に従って生きようとする人々にホセアは呼びかける。「さぁ、主のもとに帰ろう」。拝む対象をバアルからヤハウェに変えただけでは意味がない。自分の欲望をかなえるための儀式をうやうやしく行なうことよりも、ただ神を知ることを大切にする信仰へと変えられることが何よりも重要なのである。
新約はパウロがコリントの教会に宛てた手紙の一部である。コリントの教会は様々な問題を抱え、信徒同士の対立という危機に至っていた。その危機を乗り越え新しく歩む道への振る舞いとして、「和解」が勧められる。
パウロにとってその和解の根拠は、言うまでもなくイエス・キリストである。「キリストが私たちのために死んで下さったのだから、私たちも自分自身のためにではなく、キリストのために生きる」というのだ。それはキリストが大切にされた「愛」を何よりも大切にして生きるということである。
さらに「私たちは今後誰をも、肉をもって知ろうとはしない」と言う。自分の好き・嫌いや人間的感情で相手のことを判断しない、ということだ。「そんなこと不可能では?」と私たちは思う。しかしパウロは語る。「キリストに結ばれた私たちは『新しく創造された者』なのです」。
「キリストの結ばれた者」とはどんな人か。「信仰熱心な振る舞いがある」とか「礼拝をうやうやしくささげている」といったことが大切なのではない。キリストと出会うことによって、古い自分が打ち砕かれて、新しく創造された者となっているか。そしてキリストが大切にされた愛を、その人も大切に生きているかどうかが肝心なのである。