2021年8月8日(日)
エレミヤ20:7-13,使徒言行録20:31-35
カードや色紙などに「ひと言書いて下さい」と言われた時、どんな言葉を書くだろうか?自分が日ごろ大切だと思っていることを凝縮してくれるような言葉、座右の銘や生活信条のような言葉を書くことが多いだろう。
「私には語らざるを得ない言葉がある」…そんな言葉を皆さんは持っておられるだろうか?「ない」という人もいるかも知れない。しかしそういうものを「持ちたいな」と思って生きるのと「持たなくったっていいや」と思って生きるのとでは、何かが違ってくるのではないかと思う。
ただしその「語らざるを得ない言葉」というものは、人によっては心から喜んで語れる言葉ばかりとは限らない。時には「そういう言葉を語るのは、正直重荷だなー」と思いながら語る言葉もあるだろう。
エレミヤはユダの人々に神の戒めの言葉を語る預言者として召されたが、彼は「私はそんな働きを担うには若過ぎます!」と言ってそれを拒もうとした。しかしそれでも誰かが語らねばならないその言葉を、嘆きと苦しみの思いを抱きつつ語っていった。
今日の箇所にはそんなエレミヤの葛藤が滲み出ている。人々が自分の語る言葉を嘲笑うことを見越した上で、彼はこう語る。「主の名によって語るまい、と思っても、主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められて燃え上がります。」
エレミヤにとって「語らざるを得ない言葉があること」は、喜ばしいことではなく、辛いこと・悲劇的なことだった。でもそれは世界にとっては必要な言葉だった。そのようなしんどいけれども必要な働きを担う人が世界を変えていく…そのことを私たちに教えてくれたのがイエス・キリストだ。エレミヤの生涯はイエスの生き様に重なる部分がある。
新約はパウロの宣教活動のさ中、エフェソの教会の人々に向けて語られた言葉である。これから向かうエルサレムで、何らかの試練を受ける可能性が高いと予測していたパウロ。エフェソの教会の人々とはもう会えないかも知れない…そんな状況の中で涙ながらに語られたラスト・メッセージである。
ポイントは二つある。①弱い者を助けること、②受けるよりは与える方が幸いであることだ。それがパウロにとっての「語らざるを得ない言葉」だったのである。
このうち②はイエスの言われた言葉だとパウロは語るが、福音書のどこにもそのような言葉はない。しかし考えてみれば「受けるより与える方の幸い」とは、イエスの生き方そのものを表す言葉である。文字として記録されてはいないが、恐らく何度も何度も示されたこ言葉を、パウロは使徒たちから聞かされたのではないだろうか。
そしてその言葉をエフェソの人々への、いわば「遺言」の中に引用するのである。それはパウロ自身にとって、自分の生き様を根底から作り変えてくれた言葉だからだと思うのである。
私たちも、自分自身の歩みを導いてくれるような「語らざるを得ない言葉」を求めて歩みたい。