『 主の業に常に励む 』 川上牧師

2021年8月29日(日)
コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:35-52

復活信仰はキリスト教信仰の真髄である。それは「死はすべての終わりではない」と信じることである。この信仰に支えられた時、人間は強いと思う。

しかし私は、そのような信仰を「強いなー」と思う反面、ある種の危うさをも感じる。それは「神の元での永遠の命」に憧れるあまりに、今この時の命を軽んじる発想につながりかねないからだ。間違うと「敵を倒して殉教すれば天国に行ける」という、宗教原理主義者のテロリズムにもつながってしまう。

初代教会の時代に影響力を持ち、最終的には異端とされた「グノーシス主義」という考え方があった。人間の命を霊と肉に分ける二元論で、肉の命より霊の命の方が価値が高いという考え方に至っていた。

「霊肉二元論に基づく反この世主義」。私はこの考え方には賛同できない。そこでは戦争・差別・環境破壊といった肉の世の出来事に対して、真摯に向き合う態度が生まれないからだ。私は現実の事柄に対して向き合い、大した働きはできなくともオロオロしたり、うろたえたりしたいと思う。

今日の箇所Ⅰコリント15章は、パウロが復活について最もアツく語っている箇所である。パウロがこのことを記さざるを得なかったのは、教会の中に復活を否定する人たちがいたからだ。そんな人々に対して、「キリストの復活は我々の信仰にとって最も大切なものだ」と切々と訴えている。

それを読むと、パウロの中には「霊肉二元論」的な考え方があり、しかもどちらかというと霊の命に憧れる思いがあったことがうかがえる。(42-44節、46-48節)また、フィリピの信徒への手紙の中には「(私にとっては)この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(フィリピ1:23)という言葉もある。この心情はグノーシス主義とあまり変わらないように見える、。

しかしパウロは「反この世主義」には流れていかない。それは他でもない、イエス・キリストがまさに「この世」に来られ、苦しみ悩む人々に救いを語り、すべての人・命をを大切にする心=愛によって、この現実の世界を新しく生まれ変わらせたからである。

グノーシスの人たちは霊の世界を理想化し、肉の世を卑しいものととらえたために、キリストの受肉を否定した。弟子たちの見たのは、キリストの幻に過ぎないと主張した(キリスト仮現論)。そこではイエスがこの世の悩む人々と共に生きられたことの意義が欠落してしまうのである。

イエスが愛の教えを与えられたのは、「霊の世界=理想の世界」への優待券を与えるためではなかった。この現実=肉の世において、すべての命を愛おしみ、心豊かに生きられる世界を作るためだった。このキリストの福音に生かされたパウロは、あくまで肉の世の出来事に関わるのである。(フィリピ1:24参照)

パウロには霊の命への憧れがあった。しかしそれを得るためにすべきことは、内面に閉じこもり知恵や知識を蓄えることではなく。現実の世に出かけて行って主の業に常に励むことであった。「主の業」とは何か?それはイエスのように「愛に生きること」である。

現代は別の意味での二元論がはびこる時代と言えよう。「現実のことなんか知らん。変わりっこない。だから私は自分のことだけを考えて生きる…」そんな二元論がはびこる中、私たちはイエスの復活の命に支えられて、主の業に励むことを大切に歩みたい。