『 一つとなる神の民 』 川上牧師

2021年9月5日(日)
エゼキエル37:15-23、Ⅰコリント1:10-17

イスラエルはソロモンの息子の時代に、権力争いによって南北に分裂してしまった。意地の張り合いによる争いが国力を減衰させ、結果的に国家滅亡への危機を迎えてしまう。先に北王国がアッシリアに、南王国がバビロニアによって滅ぼされてしまったのだ。そんな中で預言者エゼキエルは「枯れた骨の復活」(37:1-10)を語り、そして今日の箇所で「南北王国の統一」を語る。民族最大の危機の中で、未来への大いなる希望を語るのである。

先日辞意を表明した日本の首相は、コロナ状況に関する記者会見で「明かりは既に見え始めている」と語り大ブーイングを受けた。しかし私も同じようなことを書いている。「大丈夫、夜明けはもうすぐそこです」「出口はもうすぐです」(いずれも教会報の巻頭言)。「根拠のない希望的観測だ」と言われれば返す言葉がない。それでもそのような希望を語ることは大切だと思っている。長い時間軸の中では必ず道は開けると信じるからだ。再度の緊急事態宣言発令という、力の入らない状況の中で、それでもエゼキエルのように希望に身を委ねる者でありたい。

現実の苦難は人々を分断し、本来力を合わせるべき人々が、互いの考え方・生き方の違いを非難し争ってしまう…そんな残念な現実が人間にはある。そんな私たちに、新約の箇所・第一コリントは進むべき方向性を示してくれる。

コリントの教会にも分派活動・派閥争いがあった。(パウロ派、アポロ派、ケファ=ペトロ派、キリスト派)派閥を作ること自体は必ずしも悪いことではない。人間はそういう生き物だ。問題はその派閥同士が互いに争ってしまうことである。相手を貶めるためにエネルギーを使うこと、それは必ず組織や共同体のパフォーマンスを下げてしまう(南北イスラエルのように)。そんな残念な現実を何とか神の教会としてふさわしいあり方に導こうと、パウロはこの手紙を記したのだ。

教会が「一つとなる神の民」となるために、具体的にどんなことが必要になるのだろうか?二つの道のりがあると思う。

一つは、神の民にふさわしい人間像=モデルを定め、みんながそれに近づく努力をする、ということ。旧約的には律法を正しく守る、新約的にはキリスト教の教義にふさわしい人間を目指す、ということだ。目標が明確であり、基準がはっきりとして効率的である。しかし私はこの道には進みたくない。そのような道のりからは必ず排除の論理が生まれる。それはイエス・キリストの福音にふさわしい歩みとは思えないのだ。

もう一つは「違いを認め合いながら共に生きる」という道だ。それがイエス・キリストの道だ。第一コリント12章でパウロが教会の姿を身体の部位にたとえている。そこに示されるのも違うそれぞれの働きを尊重して、共に生きるという教会の姿である。多様性の中の一致、「バラバラのいっしょ」である。

バラバラであることは大変だ。物事がすぐに決まらない。判断が右往左往する。効率的ではない。しかしたとえ非効率であっても、ひとりひとりを大切にする道を歩みたい。「早く行きたければ、ひとりで行け。遠くまで行きたければ、みんなで行け」(アフリカのことわざ)。それぞれの違いを祝えるような心を求める時、私たちは「一つとなる神の民」へと導かれる。