2015年1月4日(日)
ローマの信徒への手紙12:1-8)
「新しく生きる。」「心を新たにされて、日々新たに生きる。」 大変すばらしい言葉、信仰的にも美しく響く言葉である。しかし「新しく生きる」ということは結構大変なことなのかも知れない。その歩みを目指す中で「自分が、自分が!」という思いが中心に座ってしまうと、それは時に自分を苦しめる意識にもなり得る。人間はそんなに簡単に新しくなれない存在だからだ。
今日の箇所でパウロは「心を新たにされて…」と語っている。パウロはそれをどのような意味合いで語られたものなのだろうか?
新年、新しい思いを抱いて初詣に出かける多くの人々。そこで祈られる多くのことは「自分がしてもらうこと」だ(家内安全、合格成就、商売繁盛)。私たちもその姿を批判できない。私たちのささげる祈りも、その大半は「自分のこと」ではないか。それが「間違っている」と言いたいのではない。「人間とはそういう生き物」だと思うのだ。
しかしそんな人間たちに向けて、パウロは語りかける。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」(1節)。「むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。
どうしても自分を主体に置きたがる人間という存在。そんな人々に向けて、パウロは「主体的に神の客体となれ」、そのように奨める。それがパウロの語る「心を新たにされる」ということだ。これは、そうと聞いて「ハイ、わかりました」と簡単に実行できることではない。でも、だからこそ一生の課題となるのだ。
「主体的に神の客体となる」。何だか「堅苦しいこと」のように思ってしまう。しかしその具体的な現れとしてパウロが示す世界はきわめて多様性に富むものだ。(3-8節)それはたったひとつの解答しか許されないような狭いものではない。その人それぞれの計りに従った道が備えられている…そのことを信じたい。
昨年104歳の生涯を閉じられた、詩人のまど・みちおさんの「臨終」という作品がある。
神様
私という耳かきに
海を
一どだけ掬わせてくださいまして
ありがとうございました
海
きれいでした
この一滴の夕焼けを
だいじにだいじに
お届けにまいります。
心新たにされて生きる者の姿とは、この一滴の夕焼けを掬う耳かきのようなものと言えるのではないだろうか。このような思いを心に抱きながら、神の与えられた日々を、気負わず、焦らず、されど誠実に歩む者となろう。