『 愛を持って歩む 』 楠元 桃 伝道師

2021年9月19日(日)
出エジプト20:1-17 エフェソ5:1-5

「イライラ」する日々が続いている。度重なる緊急事態宣言の中、できることが少なくなってきている上にまたさらに制限をされ、みんなうんざりしながら、いつまで我慢すればいいのか、「イライラ」が溜まってきている。そんな私たちにぴったりかも知れない絵本。『あつかったらぬげばいい』(ヨシタケシンスケ・白泉社) 私たちの日常に、爽やかな風を吹かせてくれる一冊である。

見方を変える、考え方を変える。それだけで、少し心を緩めることができる本である。その中の一節「きょう1日、なにも進められなかったら、136億年の宇宙の歴史に思いを馳せればいい」私をほっとさせてくれる言葉である。もう少し、ゆっくりのんびり、そして穏やかに日々を過ごしていってもいいのではないかと思わせてくれる。こんなときだからこそ、みんなで支え合って、マスクの下でも笑顔で生きていきたい。

今日の新約聖書では、パウロが古い生き方を捨て、新しい生き方をするように勧めている。パウロの時代の考え方であるがゆえに、現代人である私たちには少し窮屈に思えるような言葉であるが、それでもできていない自分をだめな人間と思ってしまう。しかしここから伝えられるメッセージの大切なところは、できないことを嘆き、自分をだめ人間と捉えて諦めるのではなく、努力し、愛を持って歩むことを大切にするべきではないかということではないだろうか。

旧約の言葉は十戒。十戒を元に律法が作られ、その律法を実践し、遵守し、指導していたのが、新約の律法学者やファリサイ派の人々。自分たちこそが正しく、神の国に一番近く、神に一番愛されていると思っていた彼らの前にイエスが現れる。イエスは彼らがしてこなかった関わり方で人と関わり、彼らが蔑んでいた人々を愛し、彼らが遵守していた律法を破るような形で、人々の尊敬と人気を集めていった。彼らにとっては許すことができない存在。その怒りや憎しみがイエスを十字架へと導いていく。

彼らとイエスの違いは何であったか。イエスの行動、言動には「愛」があった。律法学者たちは決まりを守ることに固執し、それさえしていればいいという考えから、愛のない行動を取るようになっていたのではないか。(善きサマリア人 ルカ10:25~37)

「愛を持って歩む」こと、私たちはできているだろうか。コロナ状況が続く中で、私たちは自分のことで精一杯になってしまってはいないだろうか。コロナの状況下は、私たちにとって大きな試練である。過去にも大きな試練がたくさんあった。その多くを人間は乗り越えてきた。そのときに「歌」は私たちの助けになる。苦しさの中から「歌」が生まれる。

1950年代からアメリカではアフリカ系アメリカ人による公民権運動が盛んになり、その中でも歌が生まれた。「We shall over come」この歌をみんなで声を合わせ、静かに穏やかに歌うことによって、彼らは相手を倒し、打ち負かすのではなく、彼らと共に、みんなで一緒に歩んでいくことを選んでいった。この歌はいま、コロナと共に歩むことをしなくてはならない私たちにも響いてくる。人間の勝手に、都合良く何かを消し去るのではなく、愛を持って、共に歩むことを選択できる者になりたい。