『 いっしょにいなくても、僕らは力を合わせてる 』

2021年9月26日(日) オンライン合同礼拝
列王記上19:13-18 ルカ7:6-10

今日のメッセージのタイトルは、テレワークに使われるデジタル通信機器の会社の、TVのCMの台詞である。コロナ状況によりテレワークが一気に進み、仕事によっては会社への通勤が必要なくなった。離れていても共に働ける…便利な時代になったものである。

今日は太田八幡教会とのオンライン合同礼拝。礼拝もまたコロナ状況により、リモートで行なうスタイルが広がっている。すでに人口減少地域の小規模教会同士の間では、このような礼拝の実践がなされているとも聞く。

これに対し、「いや、やはり教会の礼拝は集まることが肝要だ。身体性が伴うことが大切で、ヴァーチャルなものはリアルの経験があってこそ意味がある。」そういう意見も聞かれる。私もかつては、どちらかというとそういう意見に近かった。今後、オンラインによる教会活動が広がると、教会でも意識を変えていかねばならないと思うが、それがうまくイメージできない。

イエスの時代にはインターネットなどなかった。イエスと人々との出会い・交わりは、顔と顔を合わせてのリアルでダイレクトなものだった。イエスは社会の中で弱い立場の人々のところを訪ね、祝福を語り、病を癒された。

そんなイエスの歩みを見ていると、「やっぱりリアルだよ。ヴァーチャルじゃないよ。」という声にも一理ある思いがする。しかし、イエスのなされた癒しや宣教の働きが、すべてダイレクトなものであったかというと、そうとも言い切れないのである。

今日の箇所は「百人隊長の部下の癒し」の出来事である。この隊長は思いやりの深い人で、病気の部下が癒されることを願い、イエスに頼ってくる。間を取り持ったユダヤ人にも評判がよく、この人の人柄がうかがえる。

そこでイエスが癒しのために百人隊長の家に向かうと、中から人が出てきて「家の中にお迎えするような者ではありません。ただひと言、お言葉を下さい」との思いが伝えられた。イエスが感心して「イスラエルの中でもこれほどの信仰は見たことがない」と言われ、家人が家に戻ると部下の病気は癒されていた。

イエスとこの部下は直接触れ合っていない。リモートである。何が起こったのか?不思議な超能力がテレパシーのように働いたのだろうか?

イエスの癒しについていつも言うことだが、大切なのは病人とイエスとの間にある信頼関係、そして病人自身の「治りたい」と願う気持ちであると思う。イエスも「あなたの信仰があなたを救った」と言われている。切なる願いと信頼があるところでは、直接の触れ合いがなくても癒されることがある…この物語はそんなことを示している。

エリヤは悪しき権力者妃に対し、自分一人で闘っていると思い、絶望していた。そのエリヤに神が示されたのは「あなたは一人ではない。七千人の仲間がいるのだ」という声だった。エリヤはその声に励まされ、再び歩き出す。自分には見えないところで、でも同じ思いで歩む人がいる…イマジネーションと仲間を信じる心が、人間に大きな力を与えてくれるのだ。

遠く離れて姿が確かめられなくても、同じ思いで歩み、祈っている仲間がいるはずだ!…そう信じられる時、私たちは一緒になくても力を合わせることができるのだ。