『 権威に従うということ 』

2021年10月10日(日)
申命記4:5-8、ローマ13:1-7

今日の新約・ローマ書13章は、上に立つ権威に従うことをパウロが命じる箇所である。この箇所は私にとって苦手な、「鬼門」と言える箇所である。なぜなら私は、権威と名の付くものに、理由もなく有無を言わさず従わせられるのが大の苦手だからである。

既成の権威に寄りかかって「偉そう」に振る舞う人物を見ると反発を覚えてしまう。しかし自分が同じように振る舞っていないかというと、同じようなことはしているかも知れない。人はいろんな場面で時に権威に膝をかがめ、時に自分が権威をひけらかして生きてしまうものである。

はたしてほんとうの「権威」とは何であろうか?自分からひけらかす権威は本物ではない。それは「権威主義」であり、権力的なふるまいだ。聖書の中の律法学者やファリサイ派の多くはそんな権威主義の塊のような人たちであった。本当の権威とは、おのずと人を従わせるものである。そこには何の強制もなく、信頼と尊敬があるだけ…それがほんものの権威である。

イエス・キリストの宣教の様子を伝える中で「律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられた」という記述がある。イエスは律法学者のように既成の権威によりかかって(偉そうに)語られたのではなく、「自ら権威あるもの」として堂々と語られた。それは聞く者の姿勢を正す迫力と、納得・うなずきを与える説得力と、そして何よりもひとりひとりの人間のことを深く思いやる「愛」が感じられるものだった。そのイエスの言葉に、人々は親しみと信頼を抱き、おのずとひざを屈めたのである。

さて、ローマ13章でパウロは「上に立つ権威は、神が定められたものだから従うべきである」と記している。パウロがここで示している「権威(エスクーシア)」「支配者(アルコントス)」という言葉は、現世の支配者のこと、パウロの時代の文脈で言えばローマ帝国の皇帝や総督を指していたと考えられる。

こういう記述を読むと私は考え込んでしまう。「すべての支配者」が神によって立てられたものだとは、どうしても思えないからだ。実はパウロがこのようなことを書いたのには、当時のローマ教会における事情があったと言われる。宗教的熱狂により反ローマの活動(テロ)を企てようとしている人に向かって、「市民としての義務を果たしながら、良心的に行動することを求めたのではないかと考えられている。

「どんな暴君であっても、神が立てられたのだから文句を言わずに従え!」とまでは、パウロも言わなかったのではないか。聖書には、権力者が神の道から外れた時、それを糺す預言者が現れる場面が数多く記される。上司がどんな悪事を命じても、黙々と従う部下は、本当の意味でその上司を尊重してはいない。「それはいけませんよ!」と進言する、それが本当の部下の姿である。

権威に対して無批判に従うことが求められているのではない。権威が権威であるための大切な要素、信頼と、尊敬と、愛、それが感じられる関わりを作ることが求められているのだ。

私たちにとって、最も信頼できる権威、それはイエス・キリストだ。私たちがイエスの権威に従うのは、「そうしないと罰を受けるから」ではない。イエスに従う歩みにこそ、かけがえのない命の歩みを本当の喜びがあると信じるからである。