2021年10月24日(日)
創世記2:15-25、マルコ10:1-12
結婚式の司式を頼まれた時、事前にレクチャーをすることがある。その中で、「結婚する相手は『他者』である」ということをいつも申し上げている。自分と波長が合う、考え方が同じ、趣味や好きなものが共通する…そういった部分だけを見つめるのではなく、相手を自分とは違うひとつの人格を持った存在だと受けとめることが大切だ、と。
相手の中に、共通する思い、共感できる部分があるのは結構なことだ。しかし自分の理想や願望を求め過ぎてはいけない。結婚相手は自分に都合よく仕える「召使い」ではない。一緒に生活を続けていると、必ず自分とは違う部分が見えてくる。その違いを認め合い、共に生きることこそ、夫婦の正念場だということだ。
今日の聖書は、旧約・新約いずれも結婚に関する内容である。創世記はアダムとエバの物語。神の天地創造のわざの中で、最初に造られたアダム(男)を見て、神は「人がひとりでいるのは良くない。彼にふさわしい『助ける者』を造ろう。」そう言って妻・エバ(女)が造られた。
「助ける者(エーゼル)」とは「補助者・助手」のような存在ではない。詩編や出エジプト記では神の助けを意味する言葉として用いられている。神が欠けの多い人間を助けるように、お互いの欠けた部分を最も近いところで補い、支え合うパートナー、それが「エーゼル」なのだ。
「人はその父母を離れ…」という言葉も大切だ。父母の付属物ではなく、独立した個人として出会い、共に生きる。夫婦とは「一体となる他者」なのである。結婚生活において、それぞれの人格が大きく損なわれることがあってはならない。
新約は「離婚をすることは律法にかなっているか?」という問いをめぐるイエスとファリサイ派の論争。申命記24:1には「妻に何か恥ずべきことを見出した時は離婚できる」と記されている。この条文が拡大解釈され、イエスの時代には「鍋の料理を焦がしたこと」も「恥ずべきこと」と離婚の理由にされたことがあったそうだ。
イエスは、夫婦が一体となるものであることを語り、「神が合わせられたものを人は離してはならない」と答えられた。これは「離婚をしてはいけない」という意味だろうか?そのようにも受けとめられるが、私はこの答えは、鍋を焦がしたぐらいで離婚をする身勝手な人々に向けて語られた言葉だと思う。しかし、神から与えられた人格が著しく損なわれる状況(暴力、不誠実、家族制度の強制)の中で、やむにやまれぬ思いで下した決断であるならば、イエスはそれを受け入れられるだろう。
違いを認め合う・乗り越え合う…それは実際には簡単なことではない。しかし私たちはその課題を克服する力を神から与えられている。それは「愛とユーモア」だ。愛とユーモアを心に抱いて、異なる他者と共に生きる…それは夫婦にとってだけではなく、すべての人間関係において大切なふるまいである。