2021年10月31日(日)
創世記4:1-10、Ⅰヨハネ3:9-18
今日の新約は、愛に生きること、しかもイエス・キリストに倣って兄弟のために命を捨てるような愛に生きることの尊さを教える言葉だ。この教えに従い、自らの命を捨てて隣人を助けた人が何人もおられる(塩狩峠の長野青年、洞爺丸のストーン、リーパー両宣教師、コルベ神父、等々)。
このような話を聞くと私たちは心を打たれる。しかし、その教えの直前のヨハネの言葉を読むとき、正直言って私は少しいたたまれない気持ちになってしまう。「罪を犯す者は悪魔に属する」「神から生まれた者は罪を犯さない」そのように、善人と悪人の存在が対比的にが語られているのである。私はこういった区分けで高みから語られる言葉が苦手だ。それは自分の中に悪が拭い難く存在していることを、常に感じているからであろう。
ヨハネは続けて「カインのようになってはいけない」と論を展開する。今日の旧約はそのカインとアベルの物語である。
カインは土を耕す者(農夫)、アベルは羊を飼う者(牧者)であった。二人はそれぞれ神に供えものを献げたが、神はアベルの供え物にのみ目を留められ、カインのものは無視された。怒りを抱いたカインは、アベルを呼び出し殺してしまう。神によってその罪をあばかれたカインは、大地をさすらう運命に定められた…。
私は幼い頃この物語を読んで、理不尽な思いを抱かずにはいられなかった。「確かにカインは悪い。しかしその原因をつくったのは、神さまのえこひいきではないか!」と。はたして神はなぜカインの供え物を顧みられなかったのだろうか?
実はこの物語の背後には、農耕民と遊牧民の確執があると言われる。定住し、安定した生活を営むことができる「強い」農耕民に対して、移動生活で、常に命の危険と隣り合わせの「弱い」遊牧民。その弱い存在を顧みられるのが聖書の神さまだ…ということである。説明を聞くと半分納得はするが、なお理不尽さは残る。なぜなら私は、自分がカインと同じ心を持っていることを知っているからだ。
嫉妬深く、自己中心で、怒りを覚えると我を忘れてしまう…昔からそんな自分の暗部を感じてきた私は、ついカインに肩入れしてこの物語を読んでしまう。そんな私にとって「カインのようになるな。彼は悪い者に属するからだ」というヨハネの言葉は、胸に突き刺さるものである。はたしてカインはヨハネの言うように「悪魔の子、滅びに定められた存在」なのだろうか?
もとの物語を読むと、少し違う展開が記されている。弟殺しの罪により大地をさすらう運命となったカインは、「私に出会う者は、誰でも私を殺すだろ」と不安をつぶやく。すると神は、誰もカインに報復することが無いように、彼に「しるし」をつけられた、と記されている。カインにつけられた「しるし」。それは彼が大きな罪を犯したしるしである。しかしそれと同時に、「その罪を背負いながら、それでも生きてゆけ!」と命じる、神の赦しのしるしでもあるのではないだろうか。
「イエスは私たちのために命を捨てて下さった」(Ⅰヨハネ3:16)とヨハネは語る。「私たち」とは誰のことなのだろうか?「義を行う人」「神から生まれた人」…そういった「善人」だけなのだろうか?いや、そうではなく、カインのような人もその中に入っている…そんな風に受けとめたい。
「こんなわたしのためにも、イエスは関わりを持ち、命を捨てて下さった」…心からそう受けとめることができる時、私たちは「まことの愛」を知り、感謝の思いを抱かずにはいられなくなる。そうする中から、「私たちもそのような『まことの愛』に生きよう!」という歩みが導かれてゆくのだ。