2021年11月14日(日)
出エジプト6:10-13,ヘブライ11:23-29
月一回の聖書研究会では、パウロの生涯について学んでいる。パウロにとってコリントの教会は、問題の多いやっかいな教会であった。その問題を何とかしようと綴ったのがコリントの信徒への手紙Ⅰ・Ⅱである。そこには現代の私たちの心にも響く、珠玉の言葉がいくつも記される。(例・愛の賛歌 Ⅰ・13章)これらの言葉は、問題があったからこそ残された言葉である。そう考えると、「問題がある」ということにも意味があるように思えてくるのである。
今日の聖書は旧新約とも古代イスラエルの英雄・モーセに関する箇所である。エジプトの地で奴隷とされた民の嘆く声を聞き、これを救い出すために主なる神・ヤハウェから遣わされた民族解放のリーダー、それがモーセとアロンの兄弟である。モーセには神の声を聞き決断する役割が、アロンには口下手なモーセに代わって、民に語りかける役割が託されてゆく。
その出エジプトの物語の中で、何とも不思議なことが書いてある箇所がある。モーセは主なる神から「ファラオの所に行って、『わが民を去らせよ』と告げよ」という命を受けるのであるが、「わたしはファラオの心をかなくなにするので、彼はあなたたちの言葉を聞かない」と言われるのである。
「ヤハウェの神はイスラエルの味方、いつも自分たちに有利に働いて下さる…」そういう前提に立つならば、これはどうしても理不尽なことに思えてしまう。「神さまはイスラエルを救って下さるのではなかったのか!?」と。
しかし、人間にとっての現実とは、そんなに何から何まで自分の思うように行くことばかりではない。どんなに頑張っても道が開かれないこともある。そんな状況に出会う度に「これは約束が違うではないか!」と呟いていたのでは信仰が立ち行かなくなってしまう。
考え方をひっくり返してみたらどうだろう?「神さまは、ファラオにも役割を与えられたのだ」と。神の定められた壮大な計画の中、どうやって課題を解決し、危機的な状況を乗り切っていくか…そんなゲームのキャラクターのようなものとしてそれぞれの場所におかれているのではないか、と。そうやって自分の置かれている状況を俯瞰して眺めると、思わぬ道が開かれてくることがある。
元ヤクルトの名選手・古田敦也さんが面白いことを語っていた。「大事な試合でピンチに立たされ、プレッシャーに押しつぶされそうになる時に、肩の所に『もうひとりの古田くん』が現れて、僕に言うんです。『大丈夫、命までは取られへんで…』と。すると冷静さを取り戻して、現実に向かってゆけるんです。」自分を上から眺めて、自分も壮大なゲームの一員だと考えることによって、道が開かれていくという。
困った時、行き詰まった時、「自分の思い」の中に沈み込んでいたのではなかなか気力がわいてこない。自分にとって都合の悪い、問題ある人がいると、その人の存在が疎ましく思えてしまう。
しかし「その人にも役割があるのではないか」と考えてみたらどうだろう。その人は自分が自己中心的にならないように現れてくれた人なのかも知れない…「現実とはお前の思い通りにはならないのだ」ということを教えるために、敢えて立ちふさがってくれた人なのかも知れない…と。その上で「このしんどい状況を、さぁどうやって切り拓いていってやろうか」と、まるでゲームを楽しむように受けとめると、心に幅と奥行きが与えられ、少し違った歩みが導かれていくのではないかと思う。
日々出会う様々な人々、そのひとりひとりの存在の中に、神が与えられた「それぞれの役割」がある…そんなことを見つめながら、苦労の多い人生を、それでも楽しみ味わう者でありたい。