『 よい知らせを告げる者 』楠元伝道師

2021年12月12日(日)
イザヤ40:1-11 マルコ1:1-8

12月10日、私が勤める学校でクリスマス礼拝が行われた。生徒たちによるハレルヤコーラスに感動した素晴らしい礼拝だった。そこで改めて福音を宣べ伝えていくことの大切さを感じた。誰に遠慮することなく、禁止されているわけでもなくみ言葉を語ることが許されている私である。その立場にいられることに感謝しつつ、使命の重さに身を引き締めなければならないと思った。クリスチャンである私たちは、それぞれにできる形で福音を宣べることが許されているし、託されている。このクリスマスの時期に私たちは「良い知らせを伝える者」になれているだろうか。

イザヤ書には「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声を上げよ」とある。力を振るって、恐れず声を上げることがここでは求められている。イザヤ書では前半でイスラエルに対しての裁きが書かれているが、40章から始まる後半では、慰めと希望が語られている。その慰めと希望の内容が良い知らせである。救い主がこの世に来られること、捕囚の民としていつまでも捨て置かれることはないこと、必ず救いが訪れること。このことは、当時のイスラエルの民にとってどれほどの慰めであったか、希望であったか。

3節では新約で登場する洗礼者ヨハネについて書かれている。「主のために荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ」洗礼者ヨハネは、イエス誕生の半年ほど前に生まれ、イエスが宣教を始める前にその準備として荒れ野で悔い改めを宣べ伝えた人物である。彼はまさにイザヤの言葉の通りに力を振るって声を上げ、人々に洗礼を授け、イエスにも洗礼を授け、イエスの宣教への道筋を整えたのである。

イザヤの40:6以下には私たち人間は草や野の花のようなもの、永らえてもいつかは枯れ、しぼんでしまう存在とある。人間はいつかは命を終えて、神の元へと召されていく。しかし永遠に変わらないものがある。それが「神の言葉」である。8節に「草は枯れ、花はしぼむが私たちの神の言葉はとこしえに立つ」とある通りである。変わらないものである「神の言葉」はいつでもどんなときでも私たちを励まし、癒やし、苦しみから解放してくれ、私たちを奮い立たせるものだ。その神の言葉を私たちは自分なりの仕方で宣べ伝えていきたいと思う。神は羊飼いのように私たちをみ腕に抱き、導いて下さる。その神の子イエスの誕生を今年も心を込めて祝いたい。讃美歌405番のように、私たちはみ言葉を宣べ伝えていこう。