2022年1月9日(日)
ルカ2:41-52
ルカ福音書だけに記された、少年イエスに関するエピソードである。両親・親戚の一行と共に、過越祭のためエルサレムに上っていたが、帰りの道のりの途中でイエスがいないことに気がついた。慌てて捜し歩き、エルサレムに戻ってみると、イエスは神殿で律法学者たちと楽しそうに議論していた。母マリアは思わず言った。「何てことをしてくれたんです!?みんな心配して捜していたんですよ!」
この箇所を読むと、私には思い出す子ども時代の記憶がある。小学校4年生の時に、祖父が大阪万博に連れて行ってくれた。「お前はひとりで好きなところを見に行っといで。お昼に太陽の塔のところで待ち合わせて、昼食にしよう。」ということで、意気揚々とひとりで会場を巡り歩いた。
お昼に広場に行ったのだが、人が多すぎて見つけられない。「このまま探していると、午後の時間がつぶれてしまう」。しびれを切らした私は、探すのをやめてパビリオン巡りを再開した。
夜、閉園時間になって出口に行くと、祖父が待っていた。「どうしたんだ!?迷子になったかと思ったぞ!」と言われたが「最後に出口の所で会えると思った。午後の時間がもったいないので、ひとりでパビリオン巡りを続けた」と答えた。祖父は「こいつは大物だ。」と思ったという。
「家族に心配をかけているかも…」と想像することよりも、万博展示に夢中になっていたかつての自分を振り返るとき、今日のエピソードについても「イエスも同じだったのでは…?」と思うのである。少し背伸びをして律法学者のおっちゃんたちと議論をし、褒められたり感心されたりしながら話を続けることに、イエスも夢中になっていたのではないか…と。
母マリアは、非難めいた言葉でイエスを咎めた。すると少年イエスはこう答える。「どうして私を捜すのです?私の父の家にいることをご存知なかったのですか?」何と生意気な言い草だろうか。私がマリアの立場だったなら、怒り心頭に発したことだろう(自分のことを棚に上げて…)。
しかしこの言葉は、とても大切なことを考えさせられるものでもあると思う。それは、子ども特有の真っすぐな神への信頼である。「私たちは神さまの掌の上で、守られ、生かされているんだよ」。このような感性は大人になると、だんだん失われてしまう。子どもの感性に、かえって大人が学ばせられることがあるが、このイエスの言葉もその一つだと言えよう。
やがて成長したイエスは、人々にこう教えられた。「明日のことを思いわずらうな」。確かに私たちは明日のことを思いわずらってしまう。どうして思いわずらうのか?それは「自分にとっての明日」「自分のための世界」という自己中心的な考え方をしているからではないだろうか。その自分にとっての明日・世界が、自分にとって「よきもの」でなかったらどうしよう…と。
この自己中心性を心から消すのは難しい。それはある意味生き物の本能のようなものである。それを変えてくれるのが信仰である。「自分のための世界」「自分のための神」ではなく、「世界の中の自分」「神さまあっての自分」と認識をひっくり返してくれるのである。
新しい年を迎えた。私たちはまだ引き続きコロナウイルスの感染蔓延の状況の中にあり、様々な不安や心配を抱えて日々を歩んでいる。でも忘れないようにしたい。「それでも私たちは、この地球という星の恵みによって生かされているのだ」ということを。野の花・空の鳥のように、あるいは神殿における少年イエスのように、自分を守り生かして下さる神の恵みに全幅の信頼を寄せ、神さまの掌の上で生かされることを感謝して歩みたい。