『 水の中を通って 』川上牧師

2022年1月9日(日)
出エジプト14:15-22、マルコ1:14-20

新約はイエスが洗礼を受けられた場面である。洗礼とは水で洗うことによって罪を赦し、新しく歩み出すための儀式、キリスト教では入信の儀礼である。

神の子・メシヤであるイエスが洗礼を受けることに、奇妙な思いを感じる人がいるかも知れない。しかしメシヤ・イエスは「神そのもの」として来られたのではなく、「人となって」来られたのである。フィリピ2:6-9のパウロの言葉はそれを表している。(参照) イエスの受洗という出来事は、キリスト(救い主)が、神の高みから人を見下ろすのではなく、人として生まれ、人と共にい生き、罪を背負われたことを表すのである。

洗礼には、罪の赦しとは別に、もう一つの意味合いがあると私は思う。洗礼は「ゴール」ではなく「スタート」、これから新しい歩みに向かいますという決意のための通過儀礼という側面だ。

よく「私は洗礼にはまだまだふさわしくない者です」と言う方がある。謙遜だとは思うが、その論をつきつめれば、洗礼にふさわしい人がどれほどいるだろうか。勉強や修行の末に「合格者」として洗礼を受けるというのではなく、自分の破れを見つめ、イエスに従うことでその破れを修復してもらえると信じられるならば、それで洗礼の資格は十分だと思う。

ところで洗礼には水を使う。「水で罪を洗い流す」という意味合いもあるが、旧約的な背景からもう一つの意味合いがある。それは「水の中を通って」救われていく、というものである。

旧約の箇所は出エジプト記、モーセによる「海の奇跡」の場面である。エジプトの奴隷状態から解放され新たな地へ向かうるイスラエルの民を、追っ手のエジプト軍が海沿いまで追い詰める。しかしモーセが手の杖を差し出すと、海が割れて道が現れ、自由の地に向かって行った…映画でもクライマックスの場面だ。人々は「水の中を取って」救われていく。聖書における洗礼には、この出エジプト記の救いのイメージも重ねられている。

水の中を通って、神の救いに向けて歩んでゆく…古い自分に区切りをつけて、新しく生まれ歩み出す…それが「スタート」としての洗礼である。人間には大切な節目に、このような区切りの時が必要とされてきたのだ。

イエスも同じだったのではないだろうか。ナザレで両親の元で心豊かに育ち、そしてこれからいよいよ神の国の福音を伝えるために歩み出してゆく。それは必ずしも祝福された、喜びあふれる道ばかりとは限らない。神のみこころに従うためには、時には厳しい対決が避けられないことがあるかも知れない。そんな道に一歩進めるイエスにとって、水の中を通って新たに生まれ歩み出す区切りの時が必要だったのではないだろうか。

洗礼とは、何が何でも受けねばならないものではないと思う。「洗礼を受けなければ救われない」ということでもないだろう。しかし受けた人と、受けない人との間には、やはり「違い」がある。それは、イエスに従う決意を表明し、水の中を通ったことである。その決意と応答が人を変えるのである。