『 始まりのとき 』楠元 桃 伝道師

2022年1月16日(日)
エレミヤ1:4-10,マルコ1:14-20

2022年が始まり、心新たに新しい年を迎えている方も多いだろう。今年こそ平和で平安な年になるように願う。

昨年はわたしにとっては大きな変化の年であった。長く非常勤として勤めていた学校で専任として働くことになり、宗教主任としての役目も担ってきた。46歳での新しいスタートである。人生の半分を過ぎた頃に新しいスタートをすることは、私にとっては神によって備えられていた時と感じる。

私たちはいくつになっても新しいことを始めることができる。始める機会がもし与えられたら、勇気を出して新しいことへの一歩を踏み出したいと思う。

エレミヤは神からの召命を受けたとき、「私は若者に過ぎないから」と断ろうとしている。実際にエレミヤはこのとき20歳前後。今の時代でも確かに20歳前後では大きなことを任せるには未熟と考えてしまうかも知れない。「自分は準備できていない」と断ろうとするエレミヤに神は「私が共にいて必ず救い出す」と言って、信じろ、任せろと言っている。

神を信じてすべてを任せること、そのためにはまず、自分が力なく、弱く、小さな存在であることを受け入れなければならない。今の時代を生きる人は神への信仰よりも自分自身の力だけですべてを成し遂げているように思う人が多い。そんな人に「あなたは弱い小さな存在」であると告げれば反感を買うだけだろう。

しかしここに集う私たちは自分の力だけで生きているとは思っていない。私たちはすでに全能の神を知っていて神によって生かされていることを実感している。私たちは神のご計画の中で神が選ばれたときに、「はい」ということができるように目指したい。

マルコの記事でイエスの最初の弟子となった4人の弟子たちも、イエスによって弟子として召し出されたとき、網を捨てて即座について行った。今までの自分の仕事を捨ててついて行く決意。そのあとに続く者でありたい。

人の一生は短い。置かれた場所で精いっぱい自分らしく咲くこと、そして神からの召しに自分らしく応じることができる存在であり続けたい。1年の始まりのこのときに改めて神のご計画の中で生きることを思いたい。神が与えられる、喜び、悲しみ、痛み、苦しみをすべて感謝して受け入れ、置かれたところでしっかりと根をはり、揺れ動きながらもどっしりと構えて歩みを進めていこう。

(『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子、幻冬舎、2017)