『 神の権威のもとで 』川上 盾 牧師

2022年1月23日(日)
申命記30:11-15,マルコ1:21-28

「私はいつもあなたと共にいる(インマヌエル)」そんな神の言葉に支えられて歩むこと、それが聖書の語る最も力強いメッセージである。しかし私は子どもの頃、「いつも神さまが見ておられるよ」という言葉を素直に喜べないことがあった。「隠れて悪いことしてても、神さまはお見通しだからね!」そんな風に受けとめていたからだろう。

モーセは新たな地で歩み始めるイスラエルの民に律法を授ける時に「神の言葉は空のかなた、海のかなたにあるものではない。それはあなたのすぐ近くにあるのだ」と語っている。神の存在を身近に関じて、新しい歩みを作っていきなさいということだ。しかしそれが、律法の条文を「ものさし」にしていつも自分が「量られている」ということならば、私たちはそのことに息苦しさを感じるのではないだろうか。

イエスが宣教を開始して会堂で教えていると、悪霊にとり憑かれた人が「私に構わないでくれ。あなたは神の聖者だ!」と叫んだ。この人はイエスの本質を正しく見抜いている。その上でイエスとの関わりを拒否する。「インマヌエル」を拒絶するのである。ゲラサ人の癒し(マルコ5:1~)でも、悪霊憑きの人だけでなく、街の人々もイエスを拒絶した。「神の正しさ」が介入することによって、自分たちの日常がかき乱されることを恐れたからであろう。

神のインマヌエル宣言、それがいつも私たちを心強く支えてくれるとは限らない。それはある意味で「しんどい」ことでもある。私たちの「都合」が揺さぶられ、恥や過ち、ずるさや醜い心がすべて明らかにされるからである。しかしそのしんどさを通り抜けて、心安らかになれることでもある。もはやそこでは何もごまかす必要がないからである。

ところで、会堂で教えるイエスの姿や悪霊憑きを癒される姿を見て、人々は「権威ある新しい教えだ!」と語ったと記されている。そこで人々が感じた「権威」とはどのようなものだろうか?

それは律法学者のような権威ではなかった。彼らは「虎の威を借るキツネ」、神の権威を笠に着て、上から目線で人々を従わせる「権威主義者」であった。「オレたちに敬意を払え、オレたちの言うことを聞け!」と。

これに対してイエスの権威は、人々を無理やり屈服させるものではなかった。ただひたすら人を愛するイエスの姿を見て、人々が自ずと敬意を抱き膝を屈めざるを得ない…そんな権威であった。そしてイエスに示された「神の権威」は、まっすぐに「いと小さき者」に向かうのである。

「神の権威のもとで生きる」とはどういうことだろうか?「おっかない神さま」のもとで、罰を恐れてビクビクしながら生きることではない。「神の権威は、私たちの取り繕った日常を問い直し、本当の意味での自由と解放=救いを与えてくれる…」そう信じて生きることである。そして何よりも、「神の権威はいと小さき者に向かう」そのことを信じ、そのことを喜び、自分もまたその働きに加われるように生きることである。