2015年1月25日(日)
民数記9:15-23
ルカによる福音書4:16-30
「神に支えられた人間」。どんな人を想像するだろうか。いつも神の御守りを信じ、感謝と賛美のうちに日々を歩める人。順調な時だけでなく、うまくいかない時も「そこにみこころがある」と信じて忍耐強く歩める人。それが「神に支えられた強さ」を持った人間だと言えるだろう。
しかしその「神に支えられた強さ」も、方向と目的によっては恐ろしい現実を引き起こすことがある。「神の名のもとに」テロを行なったり、対立する相手を弾圧し虐殺する人々がいる。神に支えられた自分の「強さ」「正しさ」を、「ホントにそうなの?」と振り返ることも大切な信仰の課題ではないか。
民数記の箇所は、エジプトを脱出したイスラエルの人々を、「雲の柱・火の柱」が導いたという場面である。行く先の目あても知ることのできない荒野や砂漠を、どちらに向かって進めばよいか示してくれる神の導き。現代で言えばカーナビのようなものだ。民は大きな安心を胸に荒野の旅を続けることができただろう。
しかしその安心感は、大きなピンチになるかも知れない。神に頼ることに安心し切ってしまうと、人間は自分で考えることをやめてしまうからだ。ちょうどカーナビに頼る人が、なかなか道を覚えようとしないのと同じように。案の定、人々はその後直面する危機や困難に際して、神やモーセに向かって文句しか述べない情けない姿をさらけ出すことになる。
一方の新約は、イエスの宣教開始の場面。主イエスこそ、「神に支えられた人間」の模範を示してくれる存在と言えよう。故郷の人々を前に、「主がわたしに油を注ぎ」「主がわたしを遣わされ」というイザヤの預言を読み、その言葉がいまここで成就したと語られるイエス。人々がその振る舞いに感嘆し、期待を込めて動向に注目する中で、イエスは人々の依存的な心情を拒否する言葉をぶつける。たとえそうすることによって故郷の人々と対立することになったとしても。それにしてもこの毅然とした態度の源は何なのだろう?
それは、「神に支えられた人間の強さ」ではないだろうか。しがらみを引きずらず、対立を恐れず、誰が相手でも言うべきことをきっぱりと言い切る強さ。イエスこそ「神に支えられた人間」の代表選手だ。
しかし私たちはイエスとは違う。イエスと同じようにはとてもなれない…と思う。そんな私たちは「神に支えられた人間」になることはできないのだろうか。いや、きっと私たちなりの歩みが備えれられていると信じたい。みんながイエスのようにならなくてもいい。みんながイエスのように振る舞ったとしたら、それはそれで大変だろうなー、 と思う。
間違っても、イエスの強さや正しさに便乗し、まるで自分が強く正しくなったかのように振る舞う勘違いだけは、しないように戒めたい。まず、自分の弱さを見つめそれを謙虚に認めよう。なおかつその弱さに居直ってしまわないで、イエスに従ってゆこう。もちろん、自分で悩み、自分で考えることも忘れずに。