『 神の国を信じる心 』川上 盾 牧師

2022年2月6日(日)
サムエル下12:5-13 マルコ4:26-34

レインボープロジェクト(トイレ改修計画)の見積額が明らかになった。これまで概算で話し合ってきたので雲をつかむような話し合いだったが、具体的に金額が明らかになるとグッと道が開けたような気になる。「見えなかったものが明らかにされる」ということは、私たちの進む道を明るく照らしてくれる。

今日はその「見えなかったものが、明らかにされる」ということについて、特に神の国との関係で考えてみたい。

神の国とは何か?「天国」と重なるイメージで死後の世界を思い浮かべる人もいるかも知れないが、ユダヤ・キリスト教における神の国とは死後の世界(彼岸)のことではない。それはこの世(此岸)にもたらされるものである。この世の、強欲と横暴に満ちた支配者・権力者に代わって、神が愛と正義で世界を治めて下さる「神の支配」、それを神の国と呼び待ち望んだのである。

その神の国が到来する時には、「すべてのことが明らかにされる」とイエスは言われる。それは、燭台の上にともし火を置くようなものだ、と。私たちは自分に都合の悪いことは隠そうとする。そしてウソにウソを重ねて人には見られないようにする。しかしそれがすべて明らかにされる…それが神の国の到来という出来事なのである。

旧約はダビデの犯した罪の物語である。部下・ウリヤの妻・バテシバを見初めたダビデは、ウリヤを激戦地に送るという策略によって戦死させ、バテシバを自分のものにする。しかし預言者ナタンによってその罪を暴かれた時、ダビデはこれを認め悔い改める。

イスラエルの歴史上最高の英雄とされたダビデ。しかし旧約の著者は容赦しない。「神の前に隠し通せる悪などない。それはいつか必ず明らかにされるのだ。」という信仰が、それらの記録を残させるのだ。公文書改ざんや都合の悪い記録はすぐに破棄する我が国の現状と対照的である。

私たちも、例えば教会史を作る時、都合の悪い事実(教会の分裂、牧師や信徒の不祥事、戦時中の国家への協力等々)を記すことができるだろうか。信仰の「本気度」が問われるように思う。

自分に都合の悪いことはできるだけ低く見積もろう、できればなかったことにしてしまおう…そうなりがちである。しかしそれは「升の下にともし火を置くようなものだ」とイエスは言われる。隠そうとする人間的な思いを踏み越えて、神のまなざしの下ですべてが明らかにされることを信じること…それが神の国を信じることだ、と言われるのである。

そう考えると、神の国の到来どいう出来事は、ロマンチックな夢物語ではない。私たちにとって、それは結構厳しいことかも知れない。しかし、都合の悪いことを隠して生きる「疚しさ・息苦しさ」を抱えながら生きることは、決して本当の幸せには結びつかない。

神の国を信じる心、それは希望でもある。目の前にどうしようもない現実があっても、「これがすべてではない」と受けとめられる。そのような信仰に支えられる時、私たちは暗やみに覆われていても、なお希望を持って歩むことができるのである。