2022年2月27日(日)
ヨナ1:9-2:1、マルコ4:35-41
コロナ感染拡大の第6波の真っただ中である。人間には制御できない試練や苦難は、しばしば「波」と表される。聖書にはそのような荒波に立ち向かい、乗り越えた物語が記される。今日の二つはそんな箇所だ。
旧約はヨナ書。神から大都市ニネベに戒めの預言を命じられたヨナは、気の進まないその役割から逃れるために、世界の西の果て・タルシシュ行きの船に乗る。ところがそれを知った神が風を送られたので、船は嵐に巻き込まれる。ヨナが神命から逃げてきたのが原因だと知られると、ヨナは海に放り込まれる。すると嵐がおさまった…というお話である。
ヨナの正体がバレて海に放り込まれた…と受けとめられることが多いが、実際にはヨナを海に投げ入れるのを進言したのは、ヨナ自身なのである。つまり、ヨナは嵐を静めるために、我が身を差し出したのだ。
海に放り込まれたヨナは、大きな魚に呑み込まれた。嵐を静めるために我が身を差し出したヨナの命を、神はそのような形で守られたのである。そしてその中で三日三晩過ごした後、ヨナはニネベに戻って預言を語る。「三日三晩」という日数を憶えておこう。
新約は、イエスが舟に乗り、巻き込まれた嵐を静められたという「奇跡物語」である。湖上活動のプロである元漁師の弟子たちでさえ、パニックになって恐れた嵐を、イエスは「黙れ!静まれ!」と静められたというのだ。病気の癒しだけでなく、自然現象までコントロールできる「偉大な力」をイエスが持っていた…ということか?
解釈が必要だ。【 これは実際の自然現象としての嵐のことではなく、これからイエスが歩む道に待ち受ける苦難や試練のことである。とても困難な宿命が待ち受けるところに、イエスは『向こう岸へ渡ろう』と出かけて行かれる。そしてそこで嵐(試練)に出会う。弟子たちは嵐を恐れる。しかしイエスは恐れず、眠っておられた。イエスは『嵐を静める力』を持っておられたというよりも、『嵐(試練)を恐れる心を静める力』を持っておられたのだ…】そんな解釈によって受けとめたい。
イエスはどのようにしてそんな「嵐を静める力」を持つことができたのか?「神への揺らぐことのない信仰」…それも確かにあるだろう。しかしヨナの物語から別の視点に気付かされる。「本当に人が救われるためならば、我が身をささげる」そのヨナの姿は、イエスの十字架を先取りしている。ヨナが魚の中で三日三晩を過ごしたことは、イエスの復活を思い起こさせる。強引に結びつければ、イエスの「嵐を静める力」とは、十字架の死と復活を先取りする形で身につけられた力だと言えるのではないだろうか。
誰でもわが身がかわいい。「わが身を守ろう」という思いが強いと、嵐(試練)を恐れてしまう。しかし大切なことのためならばわが身をささげる決意を持てるとき、それが嵐を静める力になるのだ。