2022年3月13日(日)
申命記8:1-3,マルコ1:12-15(3月6日)
今年もレントの季節を迎えた。暖かな春の訪れの直前に一年で最も寒さの厳しい2月があるように、喜びのイースターの前には40日間のレント=主の苦しみを覚える季節がある。厳しい時を過ごすからこそ、与えられる喜びもひとしおのものとなるのだ。
今日の箇所は、旧約・新約共に「荒野」に関するものである。今日は聖書における「荒野」の位置づけ、その意味について考えてみよう。
聖書の民・イスラエルにとって、荒野とは、自分たちの救いの歴史に関わる大切な出来事を思い起こさせる場所である。それは出エジプトの物語である。モーセによって奴隷から解放されたにも関わらず、その後「約束の地=カナン」に入るまでに、人々は40年間荒野をさすらわなければならなかった。エジプト脱出後、わがままを言っては何度もモーセを困らせた第一世代の人々が、まるまる世代交代するまで(40年間)、約束の地に入ることが許されなかったのである。
しかし荒野とは、イスラエルの罪・過ちに対する「罰」という意味合いを持つだけではない。申命記8:1-3によると、試練の苦しみの中で本当に神に従う信仰を持つことができるのか、そのことを試されて信仰が培われるところでもあったのだ。
また荒野とは、神とのダイレクトな関わり・崇高な宗教経験が与えられる場所だった。アブラハムの召命、ヤコブの天使との格闘、モーセへの十戒の授与、エリヤの「つむじ風の経験」、それらはいずれも荒野での経験である。
イエスの時代にはエッセネ派やバプテストのヨハネが、荒野を拠点に禁欲的な生活をし、独自の活動を生み出していった。彼らにとって「荒野」とは、厳しい試練を受ける「邪悪な場所」ではなかった。厳しさの中にも神との交わりを感じられる、崇高な宗教経験が与えられる場でもあったのだ。
新約は、イエスが宣教開始に先立って、荒野で修行をされたことが記される。悪魔の誘惑に打ち勝ち、神とのつながりを深く確かめるためである。しかしイエスの生涯の目的は、荒野に退いて自己を修養し高めること…ではなかった。むしろ社会の中に出かけてゆき、その片隅でうごめいている「いと小さき人々」に神の救いを届けるためであった。だからイエスは人々の暮らす町や村に向けて旅を続けられる。エッセネ派の人々のような隠遁生活をすることはない。
しかし、そんなイエスの宗教性、その精神のよりどころは、やはり荒野で培われたものではないだろうか。イエスはしばしば山に登り、弟子たちとの交わりからも外れて、ひとり祈っておられた姿が描かれている。人々に「神の国の福音」すなわちよき知らせを告げるに先立って、イエスは荒野に向かわれる。そしてそこで祈り、神との深いつながりを確かめて、再び山を降りて人々の住む街にむかわれるのである。
そこに待ち受けていたのは、救いを求めていた多くの「いと小さき人々」との出会いであり、小さな喜びがあちこちに訪れていた。しかしそれは同時に、ゴルゴタの十字架に至る苦難の道の始まりでもあったのだ。
私たちもイエスの十字架への歩みを覚え、荒野に向かう意味を受けとめながら、レントの時を過ごそう。