『 鬼気迫るたたかい 』川上 盾 牧師
2022年3月13日(日)
マルコ3:20-27

人には時として、やむにやまれぬ思いで挑む「たたかい」がある。武器を手にしての戦いではないが、ある意味覚悟を決めて臨まねばならない「たたかい」である。

私のつたない体験。ある日の早朝、教会員から電話があった。「薬物中毒の息子が暴れている。助けてほしい。」指定された病院に行くと、その息子が大声で騒いでいる。病院から逃げ出そうとするのを捕まえて、取っ組み合いになった。しばらくすると息子は疲れたのか寝てしまい、何とか入院することができた。

後日、牧師たちの集まりでこのことを報告、「こういうケースに向き合うのには覚悟がいるよね」という話をしたら、ひとりの同業者から反論された。「牧師がそこまでしなければいけないのか?牧師の仕事は『み言葉の取り次ぎ』だ。乱暴者の武勇伝を自慢するのはやめてほしい。」大変腹が立った。やむにやまれぬ思いで覚悟を決めて立ち向かった「たたかい」を、第三者的な立場から批判・否定されることほど空しいことはない。

今日は、悪霊を追い出すイエスの働きに関する箇所である。イエスによって癒された悪霊に憑かれた人々。それは何らかの精神疾患を患う人なのかも知れない。ところでその悪霊を追い出す時のイエスの姿(振る舞い、声、表情…)とは、どんなものだったのだろうか。自分の経験から思うのは、「静かに、厳かに、冷静に…」というよりも、もっと鬼気迫るものがあったのではないかということだ。

「身内の人々はイエスを取り押さえに来た」と書かれている。鬼気迫る表情で悪霊に向かうイエスの姿を見て「気が変になった」と受けとめられたからである。いっぽう律法学者たちは「あの男は悪霊の頭・ベルゼブル(蠅の王)の力で悪霊を追い出しているのだ」と言った。荒々しく悪霊を追い出そうとするイエスの表情・振る舞いは、「神の子」というよりは「ベルゼブルの仲間」という指摘がピッタリだったのかも知れない。

イエスは反論する。「国が内側で争えば立ち行かない」。悪霊と言えども、内輪もめはしない!ということか。さらに言われた。「まず強い人を縛り上げねばならない」。「たたかい」に挑むにあたっては、最初の一撃が勝負だ!ということである。同じことを私は、中学生の時に仲間から聞かされた。「ケンカはな、最初の一発が勝負や!」と。

イエスが目指していたこと、それは「悪霊憑き」の人が癒されることであった。そのために、時には「鬼気迫るたたかい」が必要だということだ。たとえそのために非難されても。「あいつは気が変になった」と噂されても…。

私たちの人生に、イエスのような「鬼気迫るたたかい」が迫られることは滅多にないだろう。でもその時が来たならば、イエスのことを思い起こそう。イエスと同じようにはできなくても、逃げずに自分の道を求めよう。また、近くにそんな「たたかい」に臨む人がいたならば、律法学者のように自分は痛まないところに立って批判するのではなく、なぜその人がたたかいに向かうのか、その思いを知ろうとする者でありたい。