2022年3月27日(日)
出エジプト24-12-18、マルコ9:2-10
「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるからだ」という問答は有名だ。自然界の生き物で登頂を目的に山を登るのは人間だけ。他の動物はそんなことはしない。エネルギーの無駄だからである。しかし人間だけはその無駄を覚悟で山に登る。そうすることで得られる「何か」があるからである。
日常生活の中ですり減った生きる力の源を、非日常の時を過ごすことで回復し、また日常に戻っていく…このサイクルを宗教学では「ハレ(晴れ)とケ(褻)」という言葉で説明する。祭りや宗教祭儀がハレ(非日常)の役目を果たすのである。
山に登ると、身体は疲れているのに、精神的には逆にリフレッシュされ、英気が養われることがある。そう考えると、山に登ることは宗教的な営みに近いものなのかも知れない。
今日は旧約も新約も山に登ることに関する箇所。旧約はモーセが十戒を授かる場面。十戒の刻まれた石板を授かるために、シナイ山(ホレブ山)に登るモーセ。その山は、モーセがエジプト脱出のリーダーとしての召命を受けた場所でもある。
山の上で神聖なる体験をするモーセ。しかし麓では大変なことが起きていた(金の子牛崇拝事件)。モーセはそれを解決するために、問題の渦巻く日常へと戻ってゆく。
一方の新約は、イエスの「山上の変容」の場面。弟子たちと共に登った「高い山」(恐らくヘルモン山)の上…その頂で突然イエスの姿が白く光り輝いた。するとそこにモーセとエリヤが現れイエスと三者会談をした。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表する人物。いわば聖書(旧約聖書)全体を象徴する二人が現れ、イエスと語り合っていたというのである。
「まさに今この時!いよいよイエスが神の国をもたらす働きを始められるのだ!」そう感じたペトロは思わず叫んだ。「お三方のために3つの小屋を建てましょう!」。イエスの山の上での栄光を、メモリアルの建物を作りいつまでも留め置こうと考えたのだろうか。
イエスにとっても山は大切な場所だった。日常(ケ)の中で、身も心も擦り減らしながら小さく貧しい人々の救いに関わられたイエスにとって、時に山に登り、祈りと黙想によって神さまと交流し、再び元気を回復させる「非日常の場=ハレ」が必要だったのだ。
しかし山は、イエスにとって大切な場所ではあったが、永住の場所ではない。ひ日常の山頂で癒され生きる力を取り戻したら、再び山を降りて日常へと戻らなければならない。その日常とは、イエスにとっては十字架の死に至る苦難の歩みでもあった。それを承知でイエスは山を下り、日常の中に戻っていかれるのである。
私たちにも「山を登る体験」、すなわち日常を離れて、生きる力を回復する営みが必要だ。ただし、登山靴やリュックがなくても、誰もができるものがある。それは「礼拝」だ。礼拝という「非日常=ハレ」の中で祈り、黙想し、自分を振り返る…そうして生きる力を回復して日常に戻っていくのである。
「なぜ山に登るのか?」と聞かれたら、こう答えよう。「なぜならそこで神さまに出会えるからだ」と。