『 どこに座るか 』川上 盾 牧師

2022年4月3日(日)
哀歌3:25-33,マルコ10:33-45

人間は「定席」を好む存在である。大学の教室でも、PTAの集まりでも、理事会でも読書会でも定席ができる。教会の礼拝も同様だ。「いつもの席」で安心したがる心理がそうさせるのだろう。

「どこに座るか」には人間の様々な心理が現れる。祝宴・晩餐会・お茶席では席順がそのまま序列や上下関係となる。その席順にこだわる意識には、人間の見栄・名誉欲・競争意識などが如実に表れる。中世の貴族や戦国武将にはその手の話が満載である。

イエスが律法学者を批判して言われた言葉がある。「彼らは会堂では上席、宴会では上座に座ることを望む。」神の律法を庶民に教え指導する役割…。それを担う教育を受けたことにより「神の御心に関しては我々が一番よく知っている」と自負していた人々だ。しかしその自負が、鼻持ちならないエリート意識を形作っていた。イエスはそんな姿を厳しく批判する。その対立が、十字架の原因となっていくのである。

イエスの弟子たちにも、そのような席順にこだわる序列意識が潜んでいたことを伝える箇所である。イエスがエルサレムに向かわれる際の、その途中でのエピソード。弟子たちはエルサレム行きを「いよいよ神の栄光を現わされる時だ!」と受けとめた。何度にもわたり受難予告を語るイエスとの思いとは大きくズレてしまっていた。何度も受難予告を聞いてきたのに、彼らはイエスに願い出る。「栄光をお受けになる時、我々をあなたの右、左に座らせて下さい」。

№2になりたがる心理というのがある。リーダーとして責任を負う立場には立ちたがらないが、№2の座につくことによって、№1の威光を利用して人を従わせようとする。まさに「虎の威を借る狐」である。PTAなどではしばしば「副会長独裁」といった現象が起きるそうだ。

ヤコブとヨハネの願いはまさにそれに当たる。彼らはイエスがこれから就かれる予定の、栄光の天国の座席指定券を求めているのである。他の弟子たちも似たり寄ったりの思いを抱いていたことであろう。彼らは「イエスと共に君臨したい!」との欲望を抱いて従っていたのだ。

そんな弟子たちにイエスが示されたのは「仕える生き方」である。「世の権力者のように君臨するのではなく、隣人に仕えること、それが私に従う生き方なのだ」と。そしてその言葉通り、イエスはその生涯を通して、いと小さき者に仕えられるのである。

パウロは「キリストは神の身分でありながら、僕の姿を取られた」と記す。律法学者が、神の権威を笠に着て、№2の席順に君臨するのに対して、十字架の死に至るまで人に仕えられたのが我々の信じるキリストなのだ、と。

私たちの心の中には、席順や序列やメンツにこだわる意識がある。しかしそのようなものにしがみついている限り、本当の意味で救われることはない。仕えるイエスの姿に従い、本当の救いを求めよう。