2022年5月8日(日)
レビ19:9-18 ヨハネ13:31-35
ウクライナ戦争をきっかけに「日本も他国の侵略に備え、改憲して再軍備をすべきだ」という意見を述べる人がいる。「憲法9条は世界の現実を反映しない『お花畑の空文』だ。現実に合わせて憲法を変えるべきだ」と。
規則の条文が現実に合わなくなっているので改定する、ということはあり得ることだ(例えば女性の参政権)。しかし「武力による紛争解決の放棄」を謳った憲法の条文を同列に置くことはできないだろう。それは目指すべき理想・目標であり、現実が合わないのであればその現実の方を変えるべきなのだ。憲法9条は戦後日本にとって「最も大切な掟」だと思う。
聖書にもいろんな掟がある。その中で最も大切なものは何だろうか?福音書には同じ質問をイエスにした律法学者のことが記されている。イエスは答えられた。「心を尽くして神を愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい」。前半は申命記6:5、後半はレビ記19:18に記された掟である。
いずれもイエスのオリジナルではない。しかし「最も大切な掟は何か?」と問われて、この二つのことを答えられたところにイエスのユニークさがある。この二つは別々のことではなく、不可分なもの、同じ真理の両面を表すものである。それはもっとも大切な「愛の掟」なのである。
しかしその愛の掟も、時代の変遷の中で移り変わってきている。隣人愛を命じるレビ記のテキストの直前には、様々な細かな決めごとが記される。「弱者の権利を尊重せよ。正当な権利を認め合い正直に生きよ」等々。そこには「兄弟」「同胞」「民の人々」といった言葉が出てくる。つまり「隣人」とはイスラエルの民、すなわち仲間・身内のことである。
ではイスラエル以外の異邦人はどうなるのか。「彼らは隣人ではない」― レビ記の時代の人ならそう答えるだろう。現代のイスラエルには「キブツ」という完全平等が確保された理想の農村共同体がある。しかしそれは壁の内側のことであり、壁の外にはパレスチナ人がいて、武装した兵士が警備をしている。「隣人を愛しなさい」という教えも、「隣人とは誰か」という設定によって、何とでも変わり得る。
新約の箇所は「互いに愛し合いなさい」と命じるイエスの言葉である。とても大切な愛の掟であるが、それはレビ記の時代から言われ続けてきたことである。しかしイエスは「あなたがたに新しい掟を与える」と言われる。何が新しいのか。それはイエスの命じる愛の掟は、仲間・身内の間にとどまるものではないということだ。
イエスの愛の掟、それは「敵をも愛すること」を命じる(ルカ6:27-28)。また「友のために命を捨てる」道を示す(ヨハネ15:12-13)。私たちは「そんなことは無理だ。とても実行不可能だ!」と思う。イエスの「新しい愛の掟」を完璧に守ることなどできない…それが私たちの現実だ。しかし、現実に合わないから掟の方を変えるというのではなく、完全に遂行することができなくても、それを目指すべき究極の目標とすることが大切なのだ。