『独り立ちする者への祈り』川上牧師

2022年5月29日(日)
ヨハネ17:11-13

先週、5月26日(木)は『昇天日』。復活されたイエス・キリストが弟子たちと40日を過ごされた後、天に昇って行かれた日である。その時、弟子たちの心境はどんなものであったか?天を見上げ、茫然自失の状態で立ち尽くしていた…そんな姿が思い浮かぶ。

イエスと共に過ごした40日間は心強かった。死に打ち勝ったイエスが様々なことを教え、指示し、導いてくれた。しかしこれからは違う。イエスを十字架にかけた人々がいる中を、自分たちの力で歩んで行かなければならないのである。

しかしそのようにしてイエスが弟子たちの元を離れてゆくのは、実は彼らにとって意味のあることだと思う。不安や恐れを抱きつつ、自分で歩んでいくことによって、彼らの成長が導かれていくからだ。それは親元を離れて、独り立ちに向かってゆく若者の姿に似ている。

今日の箇所は、ヨハネ福音書に記されたイエスの最後の祈りである。14章から16章にかけてなされた最後の説教の中で、いくつもの大切な教え(よい羊飼い・新しい愛の掟・ぶどうの木の譬え・父への願い)を語り、「私は世に勝っている」という力強い言葉で締めくくり、そしてそれに続いて、残されてゆく弟子たちのことを思い、神に祈られた…そんな祈りの一節である。

様々なことが祈られているが、大別すればイエスは二つのことを祈られる。「父よ、彼らを守って下さい」「彼らを一つにして下さい」。時は十字架の直前である。これから自分を十字架につける人々の力が弟子たちに及ぶことがあっても、彼らを守って下さい…そしてこの後イエスを見捨てて逃げ去ることになる弟子たちが、それでもバラバラになることがないように、一つにして下さい…イエスはそう祈られる。それは「独り立ちする者」への祈りである。

私たち夫婦もかつて、そのような祈りをささげた思い出がある。前任地の神戸の教会で、末っ子の息子は高校を卒業後仙台の大学に進学することになった。入学前の春休み、ワゴン車に荷物を積んで仙台まで送りに行った。現地で生活の準備を整えた後、神戸に帰るために高速のゲートに差し掛かった時、突然猛烈な淋しさに襲われた。思わず引き返したくなる衝動を抑えながら、しばらく無言で運転をした。

「子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。」(内田樹)という言葉が身に沁みた。独り立ちする者のことを思い、あとは祈るしかない…そう思った。

イエスも同じような思いで祈られたのではないか。思慮が足らず、無理解な出来の悪い弟子たちだが、イエスはそんな弟子たちのことがいとおしくて仕方なかったのではないか。

私たちの生きてきた道のりの中で、同じような祈りがささげられてきたことだろう。その祈りに支えられて、私たちは成長へと導かれるのである。