2022年6月5日(日) ペンテコステ礼拝
使徒言行録2:1-13
数年前、正月の新聞の全面広告に衝撃を受けた。その広告では、角界最小力士・炎鵬の写真の横に次のような文章が綴られていた。
大逆転は、起こりうる
わたしは、その言葉を信じない
どうせ奇跡なんて起こらない
それでも人々は無責任に言うだろう
小さな者でも大きな相手に立ち向かえ
誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え
今こそ自分を貫くときだ
しかし、そんな考え方は馬鹿げている
勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ
わたしはただ、為す術もなく押し込まれる
土俵際、もはや絶体絶命…
文章を読んでいて、小兵力士が大ピンチに陥る様子が目に浮かぶ。しかし最終行にこう記される。「さ、ひっくり返そう。」上からでなく下から読んでいくと何とびっくり、ピンチに陥った炎鵬が、あきらめずに大逆転目指して闘う文章に変わるのだ。(やってみて下さい。)状況(文章)は何も変わらない。しかし見方・受けとめ方を変えるだけで、物語は逆の方向へと進んでいくのである。
今日はペンテコステ。イエスを天に送り、師の不在という状況に置かれた弟子たちに、目に見えない神の聖霊の導きが与えられ、教会の宣教が始まった日である。頼りにしていたイエスがいなくなり、心細い不安な気持ちを抱えた彼らに、突然激しい風が吹いてきて、炎の舌のようなものが降りてきた。すると弟子たちは強められて、突然様々な国の言葉でイエス・キリストの福音を語り始めた…と聖書には記されている。
弟子たちがいきなり語学の天才になったということではない。この日を境にイエス・キリストの物語が、世界の人々に向けて伝え始められたことを象徴しているのである。ガリラヤの庶民である弟子たちが、いきなり外国語でしゃべり出したら誰もが驚くだろう。しかしもっと驚くことがあった。つい昨日まで怯えて引きこもっていた弟子たちが、突然勇気を抱いて語り始めたことである。彼らの姿は豹変した。周りの人が「あれはきっと新しい酒に酔ってるのだ」と語ったように…。
語学の習得にはそれなりの時間がかかる。しかし人の気持ちを作り変えるのは一瞬でも可能だ。「もうダメだ、おしまいだ」という思いが「まだ大丈夫、新しく始められる」に変わるには、大きなきっかけは必要かも知れないが、時間は一瞬でできる。
状況は何も変わらない。突然好条件が揃ったのでもなければ、ゲームチェンジャーが現れたわけでもない。しかし、状況は変わらなくても、彼ら弟子たちの心は変わった。何かがひっくり返ったのである。大ピンチの炎鵬が、勇猛なチャレンジャーに変わったように…。聖書はそこに聖霊の導きが与えられたことを告げる。
コロナ状況は、私たちの日常をあきらめの色に染め抜いてきた。私たちは度々予定変更を迫られ、「こういう時期だから仕方ない…」とすべてのことをあきらめてきた。そんな2年半を過ごす中で、私たちの心も「仕方ない、あきらめよう」という方向に慣れ切っててしまったのではないだろうか。
そんな萎えた心を、聖霊の働きは新たに立ち上がらせてくれる。状況は変わらなくても、見方を変えるだけで、物語はひっくり返るのである。神の見えない導きを信じて、私たちも「さぁ、ひっくり返そう!」