『 神さまのこども 』川上牧師

2022年6月12日(日)花の日・こどもの日
ローマ8:12-17

今日は花の日・こどもの日礼拝。コロナ状況により、依然として合同礼拝は見送らざるを得ないが、少しでも交流になればと願い、今朝撮影した動画をご覧いただきたい。(CSのこどもたちによる『この花のように』『ふしぎな風が』の映像を映す。)教会が「神の家族」として進んでいくことを、これからも大切にしよう。

ところで「神さまのこども」とは誰のことだろう?誰もが真っ先に思い浮かべるのがイエス・キリストだ。神のひとり子であるイエスが人となって世に来られ、十字架にかかることによって人の罪を贖い赦しを与えられた…。「神の子による罪の赦し」その贖罪論が、キリスト教教義における「神の子」の理解である。

しかし聖書には、そのような教義の枠に収まらない様々なとらえ方がある。「平和を実現する人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)、「あなたがたは信仰によりイエス・キリストに結ばれて、神の子なのです」(ガラテヤ3:26)、そこでは私たちひとりひとりもまた、神の子として招かれている。

今日の箇所もそんな中の一つ。「神の霊によって導かれる者はみな、神の子なのです」「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」「この霊こそは、私たちが神の子どもであることを・・・証しして下さいます。」そのようないくつもの言葉が記されている。ペンテコステに弟子たちに注がれ、そして今も私たちを導いて下さる聖霊。その聖霊を受けた私たちひとりひとりが神の子なのだ、とパウロは語る。

イエス・キリストが神の子であることに、教会に通う人は誰も異存ないだろう。しかしそのイエスを信じ、聖霊に導かれる私たちひとりひとりもまた、「神の子」とされていくんだ…そのように受けとめることは、不遜でも何でもない、聖書に忠実な受けとめ方だと私は思う。

いや、「不遜な受けとめ方」になってしまう場合もある。「私たちクリスチャンは神の子だ。我々だけが救われ、そうでない人は滅びるんだ…」そのように受けとめるならば、「私たちは神の子」という言葉も傲慢で思い上がったものになってしまう。

そうではなくて、私たちひとりひとりは、イエスの最も大切な教え=「神を愛し、隣人を愛する(愛神愛隣)」そのことを実現する「神の子」として招かれているのである。順番を間違えないようにしたい。「愛神愛隣」が出来れば神の子にしてやる…というのではない。神は私たちを神の子としてお造りになられた、そして本当の魂の入った神の子とするために、イエス・キリストを遣わし聖霊を注いで下さっている…そう信じたい。

「わたしも、あなたも、神の子」そう信じるところでは、誰ひとり不必要な存在はない。私たちはそこで、自分をあきらめず、他者を見限らずに、共に生きていくことができる。そうして「神の家族」となれるのだ。