『 試練の道 』

2015年2月22日(日)
ルカによる福音書4:1-13

レント(受難節)の季節に入った。イースターまでの日曜日を除く40日間、イエス・キリストの十字架への歩みを覚え、自らの罪を見つめて悔い改める時と定められている。十字架に至るイエスの歩みにこそ、本当の救いがあることを信じてこの時を過ごしたい。

「私のあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」とイエスは教えられた。この言葉を聞くと「重たいもの」を感じられる人もいるだろう。教会の看板に記された「重荷を負う者は私の下に来なさい。休ませてあげよう。」という言葉に心惹かれて教会に来たのに、中に入ると「十字架を背負って歩みなさい。」と説教される。「それでは話がちがう!」そう思う気持ちも分からなくもない。

しかしキリスト教は、その創始者にあたる人が十字架上で磔にされた人である。そのイエスを「救い主(=キリスト)」と信じる宗教なので、いわば「十字架と向き合う課題を宿命づけられている宗教」だと言える。「重たいからイヤだ!」と放り投げるのではなく、その課題を担うことによって新たな道が開かれることを信じたい。

ところでレントの「40日間」という期間はなぜ定められたのだろう?「40」という数字は、聖書においては「一定期間の試練の後、新しい秩序が始まる」という場面においてしばしば登場する(箱舟物語の大雨の日数、出エジプトの民の荒野をさすらう年数、エリヤのホレブ山への逃亡日数等々…)。しかしこの日数の直接の根拠は、イエスが公生涯の前に荒れ野でサタンの試みに遭われた40日間にちなんでいる。

試練の直前、イエスはバプテスマを受けられた。その時「聖霊が鳩のように降り『これは私の愛する子、私の心に適う者』という声が天から聞こえた。」と記されている。しかしその聖霊は、イエスに平穏な日々を備えるのではなく、「荒野を引きまわした」というのだ。何という「聖霊の導き」であろうか。

しかし聖書は、本当の愛というものは時にそのような厳しさを表すものだという真理を語る。愛する者を試練の道へ送るのは、その先に人格的な成長が備えられているからだ。相手の成長や自立を願わない関わりは、「愛玩」であり、「執着」であって、本当の愛とは言えないだろう。

イエスが遭われたサタンの試み。三つの誘惑が記されるが、それは総じて言えば「自分に都合のいい神を求めよ」「あなたを試練から遠ざける神をこそ願え」という誘惑だと思う。これは私たち人間にとって魅力的な誘惑だ。しかしイエスはこの誘惑に打ち勝たれた。そして、そこでまたひとつの成長を遂げて宣教のわざに向かわれたのだ。その生涯すべてが「試練の道」だった。

私たちの人生にも、期せずして試練の道が訪れることがある。私たちは何とかそれを避けたいと願うが、大切な課題を拒んでばかりでは人間としての成長は望めない。イエスの十字架への歩みを想い起しつつ、時には試練を身に受けることのできる者でありたい。コリントの信徒に向けて送られたパウロの言葉をかみしめながら。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えて下さいます。」(コリント第一10:13)