2022年7月3日(日)
アモス7:10-15 使徒13:4-12
私たちは出来るだけ多くの人と友好的に過ごしたいという願望を抱いている。一方で、私たちはちょっとした違いですぐに対立してしまう。友好か、対立か…聖書は私たちに何を示してくれるだろうか。
旧約はアモス書。アモスは専門的な教育を受けて預言者となった人ではなかった。南王国・ユダ出身の羊飼い、野を耕す者(農夫)、その彼を神は預言者として選び、北王国・イスラエルの王、のヤロブアムへの批判者・警告者として用いられる。
南からやってきて厳しい言葉を語るアモスに対して、ヤロブアムのおかかえ預言者・アマツヤはこう言った。「南に帰り、そこで思う存分預言するがよい。しかしここではダメだ。ここは北王国、ヤロブアム王の神殿なのだ」。
するとアモスは「私は預言者ではない。ただの羊飼い・農夫だ。その私を神が用いられたのだ。だから私は語らないわけにはいかない!」こうしてアモスは対立の道を歩む。しかしそれはアモス自身の正義感や好き嫌いによるものではない。神が示された道なのだ。どうしても避けられない対立が待ち受ける時、それが単なる自分のこだわり・思い込みによるのか、それとも神さまから示されたこなのか…それが分かれ目であろう。
新約はパウロのキプロス宣教の様子を伝える箇所。キプロスの総督・セルギウス・パウルスはパウロの話に興味を持ち、もっと聞きたいと願った。すると総督と親しくしていたバル・イエスという「ニセ預言者」が邪魔をした…と記されている。突然現れたパウロたちによって、長年付き合いのある総督が横取りされてしまうことを妬んだのだろう。
するとパウロはバル・イエスに向かって「偽りと欺きの悪魔の子、正義の敵、真っすぐな道をゆがめる者!」と厳しく叱責をする。そして「お前など目が見えなくなってしまえ!」と語ると、そのとおり見えなくなったと記される。
何とも後味の悪さが残る箇所だ。バル・イエスは何をしたのか?弱い者を軽んじたのでもなければ、横暴に振る舞ったのでもない。総督が信じないように邪魔をした…言ってみればただそれだけである。
それに対するパウロの言葉は、あまりにも厳し過ぎるように思う。私には、パウロとバル・イエスとの対立は、神の光のもとでの真実をめぐる対立ではなく、人間のメンツをめぐるやりとりに見えてしまう。後味の悪さはそこから来るのかも知れない。
私たちにも、どうしても避けられない対立に直面することがあるだろう。その時、それが人間の感情やプライドから来るものか、それとも神の真実・隣人の尊厳から来るものか、そこが分かれ目だ。しっかりと吟味したい。
そして大切なのは、私たちの目指すものは対立そのものではなく、対立せざるを得ない状況の先にある「神の国」の到来だということ。そこに希望を置き、避けられない対立に向き合う時にも、心に喜びを感じて、できれば微笑みながらそこに向かいたい。