『 神の逆説 』川上牧師

2022年7月31日(日)
サムエル上17:41-50 ,Ⅱコリント6:1-10

キリスト教信仰は逆説に満ちている。「強いものが権力を持ち、知恵ある者が支配者となる」という弱肉強食の世界にあって、それに対するアンチテーゼ、「弱き者・小さき者こそ尊重される世界=神の国」という逆説が語られるのである。イエス・キリストこそその逆説の真骨頂だが、キリスト降誕に先立つ旧約の時代からそれはあった。

神があまたある民族の中からイスラエルを選び「神の民」とされたのは、彼らが強く賢い民だったからではない。どの民族よりも弱く苦しんでいたからこそ選び、祝福された…その神の選びの逆説が語られる(申命記7:6-8)。

今日の旧約はダビデとゴリアトの戦いの場面。ダビデがサウルの後継者としてサムエルによって任命された時、彼はまだ年若き少年であった。そのダビデの最初の武勲がゴリアトとの闘いだ。イスラエルの人々を震え上がらせた屈強な大巨人ゴリアトを、少年ダビデは「石投げ紐(カタパルト)」ひとつで打ち倒す。小さな者が強大な者を打ち負かす物語…そんな逆説が語られる。

歴史においては、その後イスラエルは台頭する超大国に次々に支配される。そんな中でも自分たちのアイデンティティを失わすに保ち続けたのは、「小さき者が力を合わせて大きな者に立ち向かう」という逆説の物語だったのではないか。けれども、それらの旧約の逆説は、最後は戦いにおいて勝ちを納める…という展開である。それに対して、もっと突き詰めた逆説を語るのが新約聖書である。今日のパウロの第2コリントの言葉はそのひとつである。

パウロは自分たちが立たされた「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」…そういったネガティブな状況においても「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真実の言葉」そういうポジティブなものを大切に生きる…といった逆説を語る。それに続けて語られるのが、パウロ特有の究極の逆説だ。

「人を欺いているようで誠実であり、人に知られてないようで知られ、死にかかってるようで生きており…悲しんでいるようで喜び、貧しいようで多くの人を富ませ、無一物のようですべてのものを所有している」…ごまめの歯ぎしり・痩せ我慢にも思える言葉だが、パウロがこう言い切るのには根拠がある。それはイエス・キリストの十字架だ。

イエスの十字架、それは敗北の姿の最たるものである。しかしその十字架にこそ、イエス・キリストの究極の愛が示されている…。「人が友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」という教えが偽りではなかったことを表すしるしなのである。そのような愛が示された十字架という出来事、それはこの世的には敗北でも、神の物語においては祝福された勝利となる…そのような逆説である。

「苦難、欠乏、行き詰まり…労苦、不眠、飢餓…」そのような状況において、私たちは互いに支え合うこと・愛し合うことの大切さを知る。そのような「神の逆説」の物語が、「私は弱い時にこそ強い」(Ⅱコリント12:10)と語る信仰を導くのだ。
人を富ませ、無一物のようですべてのものを所有している」…ごまめの歯ぎしり・痩せ我慢にも思える言葉だが、パウロがこう言い切るのには根拠がある。それはイエス・キリストの十字架だ。

イエスの十字架、それは敗北の姿の最たるものである。しかしその十字架にこそ、イエス・キリストの究極の愛が示されている…。「人が友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」という教えが偽りではなかったことを表すしるしなのである。そのような愛が示された十字架という出来事、それはこの世的には敗北でも、神の物語においては祝福された勝利となる…そのような逆説である。

「苦難、欠乏、行き詰まり…労苦、不眠、飢餓…」そのような状況において、私たちは互いに支え合うこと・愛し合うことの大切さを知る。そのような「神の逆説」の物語が、「私は弱い時にこそ強い」(Ⅱコリント12:10)と語る信仰を導くのだ。