齋藤眞理子さん(共愛小学校)
2022年8月21日(日)
ヨハネ福音書4:7-15
小学生と日々を過ごす中で、中高学年の子どもたちにとって、クラスの席替えでどこに座るかは、結構大事なことなんだと感じている。まん中の前の方も結構人気だが、その他には後ろの方が人気が高い。電車の席などでも、「端っこ」の方が落ち着く人も多いだろう。
「すみっこぐらし」というアニメがある。登場するのはいずれも個性豊かで、でも控え目なキャラクター。強くて完璧でカッコいいヒーローではなく、いずれも欠けのある存在である。「すみっこぐらし」のキャラクターは弱さを「売り」にして、すみっこにたたずんでいる。キャッチコピーは、「ここがおちつくんです」。
今日の箇所は、イエスとサマリヤの女との対話である。ユダヤ人とサマリヤ人は歴史的な遺恨から仲が悪かった。サマリヤ人の彼女はユダヤ人といざこざを避けて、人の多く集まる朝方ではなく、人のいない昼間に水を汲みに来る。
彼女が人目を避けていたもう一つの理由、それは「夫が5人いた」という記述から想像される。どんな事情があったかは分からないが、人から後ろ指さされるのを避け、様々な意味で、社会の「すみっこ」にいることしかできなかった女性。そんな彼女にイエスは声をかけられる。イエスは「私に水を飲ませて下さい」と頼まれた。ノドが渇いたという「弱さ」を訴えられたのだ。
「ユダヤ人のあなたがどうしてサマリア人の私に頼むのですか?」という彼女との問いに、イエスはまともに答えない。最初は「ノドが渇いたので水を飲ませてほしい」と頼んでいたイエスが、いつの間にか「わたしがあなたに永遠のいのちに至る水を与えよう」と変わっている、変な答えである。しかしこのやりとりで彼女は気付いたのだ。自分の方こそ「こころの渇き」を抱いていたということを。
すみっこで、誰からも相手にされず生きている渇き…自分ではいかんともしがたい「弱さ」である。人に知られたくない、秘密にしておきたい…そんな彼女のもがくような「渇き」に、イエスの方から近づいて下さる。しかも自分のノドが渇いているという「弱さ」をさらけ出しながら、彼女の「弱さ」に寄り添い、いのちに至る水を与えて下さるのだ。
ヨハネ福音書でイエスが「渇く」という言葉を発せられる最後の箇所、それはイエスの十字架の場面である。信じていた弟子たちに裏切られたイエスが、肉体的な渇きだけを訴えられたとは思えない。イエスもまた心の渇きを感じておられたのだろう。
私たちの日々の居場所は、すみっこでも、真ん中でも、今ある「ありのままの場所、それぞれの場所」でいいのだと思う。なぜなら、渇いている弱い自分でも、ありのままのその場所にイエス自身が近付いてきてくれるからだ。しかし一方で、そんな自分よりももっと「すみっこ」にいる友を認めたら、イエスが自分に近寄ってくれて癒して下さったように、私たちもその人に近寄り、弱さをさらけ出しつつ共に癒されることを願い、共に歩むことのできる者でありたい。(文責=川上盾)