『 新しい人となる 』川上 盾 牧師

2022年8月28日(日)
ミカ6:6-8, エフェソ4:17-25

先週(8/21)、夏期休暇中の主日礼拝は、オンラインで前橋教会の礼拝に参加した。いつもは発信側であるが、初めて受信側になって、新鮮な思いで礼拝に臨むことができた。

その体験をしながら、改めて「私たちが礼拝をささげることの意味は何だろう?」ということを考えさせられた。週に一度礼拝をささげることによって、私たちの心と身体にどんなことが起こるのだろうか?

教会の役割について「ひろば・すきま・かがみ」というキーワードを考えたことがある。広場のように誰もが集い、社会のすき間で肩書を下し「素」の自分になって、鏡の前で自分の居住まいを整える…それが教会の果たす役割ではないかと思う。礼拝に参加することの意義も同じところにあるのではないだろうか。

ミカ書では「主の前にぬかずく時」すなわち礼拝に臨むにあたって、「数多くの生け贄を用意することよりも大切なことがある」と語らられる。「正義を行ない、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と。

新約はエフェソの教会に宛てて書かれたパウロの手紙の一節。キリストに学ぶ人は、「滅びに至る古い人を脱ぎ捨て、神にかたどられた新しい人を着て、真理に基づいた清い生活を送ること」が勧められる。礼拝をささげることによって「新しい人となる」、それがパウロの示す礼拝の意義だと言えよう。

礼拝で神の前に進み出ることによって傲慢・自己中心が打ち砕かれ、悔い改めることによって新しい人になる…それが今日の聖書の示す礼拝の目的であり、意義である。その目的自体に異論はない。しかし、そう思った・願ったからと言って、私たちはなかなかすぐに「新しい人」になることはできない。それでいいのではないか…いや「いい」とは言えなくても、そこから始めることしかできないのではないだろうか。

もし私たちが、礼拝をささげることによって右肩上がりに「新しい人」としての実績を積み上げていけるなら、いつしか礼拝が必要なくなる日がくるだろう。けれども私たちの現実はそうではない。「新しくなろう」と思いを定めても、しばらくの時間の経過のうちにまた以前のような姿に戻ってしまっている…だからこそ7日に1度の礼拝を、続けてささげることが大切なのだろう。

内田樹さんは「これからの共同体は『弱目的』がいい」と言われる。「強目的」の集団は結束が強く、素早く課題を達成する反面、目的に沿わない人を排除したり置いてきぼりにしてしまいやすい。これに対して「弱目的」は同じ理想を掲げつつもスグに達成することを求めないあり方だ。その方がいろんな人と共に歩むことができる。

私たちの究極の目標は「イエスのようになること」だ。「そんなことできっこない!」と思うような高い目標。しかしだからといって投げ出さず、その遠い目標に向けて日々自分を新しくし続けていく…それが私たちの信仰の歩みなのではないか。