『 神の期待、民の裏切り 』川上 盾 牧師

2022年9月4日(日)
イザヤ5:1-7、使徒13:44-52

「期待は失望の始まり」(大瀧詠一)。私たちはそのような心象をよく体験する。期待はやがて要望になり、強要になってゆく…そして期待が果たされなかった時の憤りの感情が、抱き合わせのように存在しているのである。

聖書の描く神さまと人間との関係は、「神の期待と民の裏切り」という姿に尽きる。個々の場面では神の意志に従う姿も描かれるが、やがて人間の堕落が始まり、期待への裏切りへと至ってしまう…その繰り返しである。

イザヤは、イスラエルが権力争いにより南北に分裂した時代の預言者である。今日の箇所ではイスラエルがぶどう畑に譬えられる。神に愛され守り導かれ、「よいぶどう」を期待されていたのに、実際にに実ったのは「すっぱいぶどう」であった…。この現実に神はどう対処されるのか?「囲いを取り払い、焼かれるにまかせ…私はこれを見捨てる」と手厳しい。この預言の通り、北王国イスラエルは新興勢力・アッシリアによって滅ぼされてしまう。

新約はパウロとバルナバによる宣教の場面。初代教会の出発点、それはエルサレムである。神の愛された民・イスラエルの都であり、イエスの十字架と復活の体験の場でもある。しかし次第に福音は、ユダヤの領域から地中海沿岸=異邦人の世界へと広がってゆく。パウロはその異邦人伝道に生涯をささげた人である。

アンティオケアで宣教した際、街の異邦人は喜んで受け入れたが、ユダヤ人はねたみを抱き、パウロたちを攻撃した。本家である自分たちの領域を犯された気分になったのだろう。するとパウロは言った。「神の言葉はまずあなたがた(ユダヤ人)に語られた。しかしあなたがたはそれを拒んだ。だから私たちは異邦人の方に行く。」神の期待を裏切ったユダヤ人への訣別の言葉を語り、足のちりを払い落として出て行くのである。

神の期待に対して、それを裏切る者には厳しい裁きが待ち受け、祝福はその民を離れ去る…今日の二つの聖書箇所はそのようなことを示しているのだろうか。だとすればとても心苦しい。なぜなら、私たちもまた神の期待に十分応えられない存在だからだ。

旧約の神は確かに厳しい。しかし一方で気付くのは、裏切り続けるイスラエルと「しつこく関わり続ける神さま」でもある、ということだ。そして新約でイエスの語られる神は、基本的に「赦しの神さま」である。

ユダヤ人に厳しい言葉で訣別したパウロも、ローマ書の中でこう書いている。「ユダヤ人の罪が異邦人の富となり、そのことでユダヤ人が奮起をして救われるなら、何とすばらしいことか」(ロマ11:11-12)。期待を裏切り続ける人々に対する、厳しくも暖かいまなざしがあることを感じる。「わたしは歌おう、愛する者のために」(イザヤ5:1)、そこには愛があるのだ。

何度裏切っても、悔い改めて立ち帰る人を、神さまは赦し受け入れて下さる…そんな神さまの愛を信じて歩んで行こう。