『生涯の時を数える 』川上牧師

2022年9月18日 恵老祝福礼拝
詩編90:1-12

日本は世界でも有数の「超高齢化社会」。しかしそれは言い換えれば世界有数の「長寿の国」でもあるということだ。歳を重ねて高齢者となって、「そこから以降の歩み」を数える、トップランナーなのだ。

詩編90編には、ひとりの人間の生涯に比べてはるかに長く大いなる「神の時」への洞察が示される。天地創造の以前から、すべてのものの源である神がおられ、その神によって世界は成り立っている。「私がいて神がいる」ではなく、「神がいて私がいる」…この順序こそ、信仰の原点だ。

そして人間にとって長く感じられる時(千年!)も、神にとっては一瞬の出来事、人の一生は草花のようにしおれてゆく…「大いなるものの中でのちっぽけな自分」という感覚、これもまた宗教的な感性と言える。

詩編90編を読んでいると、何とも言えぬ無常観に包まれ「しんみり」とはかないものを感じてしまう人もいるかも知れない。しかしそのはかなさを突き抜けて、どこか「ホッ」とする感覚を受けとめられるようにも思う。「私は死んでも神さまは生きておられる」そう信じられれば、大船に乗ったような妙な安心感も生まれるのではないか。

中ほどには人間の罪が語られる部分もある。この詩はモーセの作という珍しいもの。神の救いの働きと、民の過ちの現実の間で苦悩したモーセだからこそ、そのような言葉がつむがれたのか。しかしモーセは拭いようのない絶望感を示すためにこの詩を記したのではない。「あなたの民らを力づけ、生涯喜び祝わせて下さい」と記すのである。

どうすれば、この空しいだけに思える人生を、喜び祝うものとできるのだろうか。ちょうど真ん中あたりに大切なポイントとなる言葉が記される。「生涯の日を正しく数えるように教えて下さい。知恵ある言葉を得ることができますように」。自分中心の心(罪)を離れて、神が示される知恵ある心を求め、その知恵によって生涯の日を正しく数えること…それが秘訣である。

知恵ある心で生涯の日を数える…具体的には何をすればいいのか?すでにこの詩の中に道筋は示されている。一つは「自分はちっぽけである」という自覚を持つこと。どんな地位や名誉や財産や権力を持っていても、所詮一人の人間である。大きな宇宙の中ではちりの一粒に過ぎない。

もう一つは、そのちっぽけな自分に、全宇宙を集約した神の恵みが注がれていると信じること。いまこの時のいのちは、あたりまえのものではなく、ありえない(ありがたし)ほどかけがえのないものとして、生かされている…そのように受けとめることだ。「私は小さいけど大きい」それが「生涯の日を正しく数えること」ではないか。

歌人の穂村弘さんが、投稿者の中に「91歳2ヶ月」と月齢まで記してくる人の例を挙げ、「私たちも赤子の頃はそのような形で命を見守られてきた。そして人生の終盤、再び自分の月ごとの命を見つめるのだ」と記しておられた。そのような命の見つめ方には祝福があると思う。そしてそれが、「生涯の日を正しく数える」ということなのだろう。