2022年10月2日(日) 世界聖餐日礼拝
出エジプト12:21-27,ヘブライ9:23-28
今日は世界聖餐日。世界中の教会が国と国の違いを超え、平和を求めて聖餐にあずかる日だ。ウクライナ戦争が続く中、まことの平和を求めて聖餐にあずかりたい。
ところで、聖餐式という儀式の背景には「血による贖い」という考え方がある。レビ記の「罪の贖いの儀式」、神殿の礼拝で生け贄をささげることによって、罪の赦し(贖い)が得られるというものである。大切な財産であった家畜の血をささげるのは正直「痛い」こと。その血と引き換えでしか赦されないほど、神に対する人の罪は深い…ということだ。
ユダヤ教では礼拝の度毎に生け贄が必要だった。しかしキリスト教では、イエス・キリストがたった一度自分の身体をささげ、永遠の生け贄となって下さった…という理解が生まれる。それが十字架による贖い・救いという考え方である。
ヘブライ書9章は、その「キリストによるたった一度の犠牲(血)」という考え方が、新約聖書の中でも最も色濃く反映された箇所である。「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(9:22)この言葉は旧約の伝統を引き継いでいる。日本のように「水に流す」ではダメなのである。しかしキリストが「ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」と受けとめるのだ。
聖餐式は、その「キリストの血による贖い・救い」を忘れずに記念するためという意味合いがある。それはキリストの十字架の犠牲の再現であり、ある意味で残酷な儀式である。
ところで、聖餐式をめぐって、日本キリスト教団には大きな考え方の違いがある。①聖餐式でパンと杯を取ることができるのは、洗礼を受けた信徒だけ、という考え方(クローズ)と、②キリストを信じる・信じたいという思いを抱く人ならば、洗礼を受けてなくても取ってよい、という考え方(オープン)である。伝統的・保守的な立場の人はクローズ、リベラル・改革的な立場の人はオープンという傾向がある。
ところが私の先輩牧師でとてもリベラルな立場の人でありながら、クローズの意見を持つ人がいた。「先生ほどのリベラルな人がなぜ?」と問うと、「だってあれは血だぜ。覚悟ができてない人に『飲め』とは言えんだろう。」と言われた。そして、かつて鶏の解体工場で血まみれになってアルバイトをした経験を話された。慣れるまでは食事がノドを通らなかったという。「血ってのはおどろおどろしんだ。畏れ多いんだ。簡単には飲めないんだ」と言われた。
出エジプト記の過越しの出来事では、家の鴨居に血が塗られた家の人だけが救われた。家の入口に血が塗られているのは、確かにおどろおどろしい光景だ。大量の血を見て平然としていられる人は稀だろう。血は命の源、その血をもって贖うことでしか、人の罪を贖い命を回復することはできないということなのだろう。
「血による贖い」それは畏れ多いことである。でもだからこそありがたいものである。それはイエスが命と引き換えに救いを与えて下さったしるしなのだから。