2022年10月9日(日)
創世記32:23-33,コロサイ1:21-29
30年前にスキーで骨折して以来、ヒザの関節に爆弾をかかえている。時々ヒザの関節がはずれて激痛が走るのだ。もはや全力疾走はできず、山登りも歩く時も、潜在的に不安をかかえて過ごしている。
創世記にはヤコブがペヌエルという場所で神さまと格闘したことが記されている。その時ヤコブは「腿の関節がはずされた」。わが身に引き寄せ、さぞ痛かっただろうと同情する。けれども、ヤコブはそれでも神さまにしがみつき離さなかったので、手を離すのと引き換えに神さまから祝福を受けた。
実はこの出来事はヤコブが兄・エサウから「長子の特権」をだまし取り、そのことで恨まれ、逃げている最中に起こったものだ。兄から恨まれるという「痛み」、それに加えて腿の関節をはずされるという「痛み」、それらと引き換えにヤコブは祝福を受け、「イスラエル」と改名する。そしてイスラエル12部族の父となってゆくのである。
新約は「パウロの名による」コロサイ書。近年の研究ではパウロ自身ではなく、弟子による執筆と考えられているが、今日の箇所にはパウロらしい考え方が表れている。「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし…」という言葉がそれである。
ここで言う「苦しみ」とは、初代教会の宣教の中で、クリスチャンに負わされた迫害の苦しみを意味する。苦しみを負うのはイヤなことだが、パウロには「キリストと共に負う苦しみには意味がある。それは神の祝福のしるしだ」という考え方があったようだ。(フィリピ1:29、Ⅱコリント1:6、ローマ8:17など参照)
釈徹宗さんがある時、迫害に遭いながら信仰を保ったキリシタンのことに触れ「今受けている苦しみ、それこそが自分の正しさの証明である、という信仰は『最強の信仰』だ。」と言っておられた。どんな権力も武力も金の力も、その信仰を揺るがすことができない、と。パウロが目指したのも、そのような信仰であろう。
「信じればいいことあるよ、ご利益があるよ…」そういう信仰ならば誰もが「ありがたい」と思うだろう。しかし「信じているのに(いるからこそ)苦しみが与えられる」のは辛いことだ。それを「祝福だ」と言われてもにわかには納得できないが、本当にそう信じられるならば、それはとても強い信仰となるだろう。
「痛みは祝福のしるし」― このことを私は、さも当然の真理であるかのように語ることはできない。痛いことはイヤだし、常にヒザの痛みへの不安を抱えて生きている。だから「痛みは祝福のしるし?」とハテナマークが付く。しかし痛みを持ったことが、マイナスだけだったかというと、そうではないようにも思う。そこから痛みを負う人への共感が生まれ、「共に生きる」歩みが導かれるならば、それは十分に「祝福」と言えるものではないかと思う。
生きる限り様々な痛みを体験するは避けられない。その痛みをただ嘆き続けて生きるのではなく、「この痛みにも意味があるのではないだろうか」と考えられる時、そこにはきっと祝福に至る道が備えられる。